ブラックホール防火壁仮説について少し書いてみようと思い立った。少しでも他分野の方に量子情報物理学の面白みを感じてもらえたら、という動機から。気が向いたときにのんびりと、いくつかに分けながらアップして行く予定。
まずはプロローグ。
話は1974年のホーキング(Hawking)によるブラックホール熱輻射の理論的予言から始まる。
古典論的には、ブラックホールは重力が強すぎて光さえ出て来れない「時空に開いた穴」である。
しかしその時空上で量子場を考えると、量子効果によってブラックホールは熱輻射を空間遠方に向けて放射していることを彼は示した。
現在その輻射は、彼の名をとってホーキング輻射と呼ばれている。
同時にブラックホールは熱力学的エントロピーSを持つ対象であり、それは地平面の面積Aと重力定数Gを用いてS=A/(4G)という公式で計算されることも分かった。
ホーキング以前にベッケンシュタイン(Bekenstein)が示唆していた、「ブラックホールはエントロピーを持っている熱的存在」という仮説を、ホーキングが証明してみせた格好となった。
(余談:ベッケンシュタインはホーキングらの地平面面積非減少定理を踏まえて、「ブラックホールは地平面の面積に比例するエントロピーを持つ熱力学的対象である。」と主張した。ところがホーキングはそれを信じず、間違っていることを証明しようと研究を始めたのだった。皮肉にもこの研究に過程で、彼はホーキング輻射の大発見をしてしまったのだ。ベッケンシュタインの話では地平面面積とエントロピーの比例係数は決まっていなかったが、ホーキングの解析によりそれが1/(4G)であることも決定できた。)
問題は、その後である。
ホーキング輻射はエネルギーをブラックホールから持ち出すので、ブラックホールの質量は時間とともにどんどん減少する。
球対称なシュワルツシルトブラックホールの温度はその質量Mに反比例するため、最後には高温となった爆発を起こしてブラックホールは完全蒸発してしまうと予想される。
後に残るのは、それが出した熱輻射だけである。
ここでホーキングは次のような思考実験を提案した。
平坦な時空中で純粋状態|Ψ〉にある量子場の励起を考え、それが重力崩壊を起こしてブラックホールになるとする。
時間が経ってブラックホールが蒸発した後に残るのは熱輻射だけであるが、それは通常ギブス状態などの混合状態ρで記述されるものである。
つまり、全体の物理系の量子状態が純粋状態から混合状態に発展する可能性(|Ψ〉〈Ψ|→ρ)を彼は指摘したのだ[1]。
これは量子情報の保存を意味する「ユニタリティ」という性質を持っている量子力学では起きてはいけない過程である。
ブラックホールの蒸発過程では、このユニタリティが破れて量子情報の一部が失われているように見えるわけだ。
ユニタリティを重視してきた素粒子の研究者に対しても、これはとても深刻な問題提起となった。
今ではこの問題はブラックホール蒸発における「情報喪失問題」と呼ばれている。
この問題の本質は、量子状態を純粋化(purification)するパートナー量子系が何なのか、それがどこにあるのかという点にある。
ホーキングの思考実験では始状態が純粋状態であるため、もしユニタリティが成り立つならば、終状態も純粋状態であるはずだ。
そして混合状態で記述されているホーキング輻射も、何かのパートナー量子系と合わせて考えれば、その合成系では純粋状態で記述されている必要がある。
このパートナー量子系が一見して空間のどこにもないため、量子情報の一部が失われて見えるのだ。
ところが最近ではAdS/CFT対応の理論的解析が進み、ブラックホール蒸発過程にも完全なユニタリティがあるはずだということが多くの研究者によって言われるようになった。
ホーキングも意見を変えて、2004年には情報喪失問題は起きないと表明した[2]。
しかしブラックホール蒸発過程においてどのようにユニタリティが保たれるのかについてはAdS/CFTを用いてもよく分かっていない。
その解明には正しい「量子重力理論」の完成を待つ必要がある。
そのような現状の中で、多くの研究者が様々なシナリオを提案している。
その中で多くの超弦理論研究者に人気なのが、「ブラックホール相補性」というシナリオである。
これは最初にトフーフト(t' Hooft)によって提唱され、ついでサスカインド(Susskind)によって推し進められた仮説である。
これは量子状態(波動関数)やそれが記述する物理過程の描像は、観測者に強く依存するという事実をうまく使う話でもある。
ブラックホールの地平面は古典的時空の観点から言うと特別な時空領域ではない。
例えば時空曲率も有限であり、特に巨大な質量を持つブラックホールではその曲率も地平面直上では零に近づくことが知られている。
(註:地平面の半径も質量の増加とともに大きくなるため、曲率が発散する特異点と地平面の間もどんどん大きくなり、地平面近傍領域の時空曲率は小さくなっていく。)
つまり無限大の質量の極限では地平面近傍は平坦なミンコフスキー時空で記述できてしまうような、極普通の時空領域である。
自由落下する観測者はいとも簡単に地平面の内部へ侵入し、その途中で地平面を横切るときにも特に変わった物体を見つけることもない。
内部に侵入したこの観測者は、有限時間の間に曲率が発散する本当の時空特異点に衝突して消されてしまう。
一方、地平面の外に踏みとどまる観測者は全く違う体験をするというのがこの相補性のシナリオだ。
先に述べたように、地平面近傍はミンコフスキー時空で近似できる。
自由落下をして地平面を横切る観測者はこの時空での慣性運動をしている。
一方、ブラックホールに落ちないように踏みとどまる観測者はこの時空での一様等加速度運動をしていることが分かる。
そしてこの観測者は量子場の零点振動を加速度に比例した温度の「熱浴」として観測するのだ。
この現象は、ウンルー効果(Unruh effect)と呼ばれている。
地平面ぎりぎりに踏みとどまる観測者はこのミンコフスキー時空でみると無限大に近い加速度を持っており、彼が観測する熱浴の温度も発散する。
温度が高いということは粒子が持っている熱エネルギーも大きいということである。
従って地平面ぎりぎりで落ちないようにしている観測者には、超弦理論のような超高エネルギーの物理の世界が展開されるはずだ。
超弦理論家はそこで次のように考える。
弦理論に現れる弦には、閉じた輪ゴムのような弦と開いた弦の2つの種類がある。
閉じた弦は主に重力の自由度を生み出し、開いた弦はゲージ場ような物質の自由度を生みだす。
ブラックホール時空にはそもそも重力の自由度の励起がうようよしているはずなので、閉じた弦が飛びまわっているはずだ。
その1つの弦が地平面に落ちていくのを、地平面外部に留まる観測者が見ている。
古典的近似からは地平面近くでの時間の流れは無限に遅くなる。
そのため輪ゴムのような閉じた弦が地平面を横切ろうとしたとき、一部は地平面内部に入ったとしても、残りの部分が地平面に落ち切ることはない。
そのため地平面という境界面に両端をくっつけた開いた弦のように見えるというのだ。
開いた弦はゲージ場を生むので、地平面全体にDブレインのような開いた弦でできた膜が張られるように見える。
この膜にブラックホールへ落下する物体が所有している量子情報が記録されるというのだ。
そしてしばらくするとその蓄えられた量子情報は、膜から出て行くホーキング輻射に乗せられて、無限遠方に返却されると考えられている。
このため空間無限遠方の観測者にとっては全ての量子情報が戻ってくることになり、結果としてユニタリティが保たれているというシナリオだ。
が、自由落下した観測者にとっては落下物の情報は簡単に地平面を横切り、ブラックホール内部領域に達する。
自由落下する観測者と地平面外部の観測者で、このような現象の差があってもいいのだろうか。
ポイントは、地平面内部に自由落下した観測者が地平面で物理的な膜を観測しなかったことと、実は手元に量子情報の原本を持っていることの2つの"事実"を地平面外部の観測者に教えることができないということにある。
地平面は内部領域から外部領域を因果的に切り離しているからだ。
では、ホーキング輻射に乗って戻ってきた量子情報を持ちながら外部観測者が地平面に飛び込んだらどうだろう。
先に飛びん込んだ観測者に会えたら、自分と相手がそれぞれ同じ内容の2つの量子情報を持っていることが判明してしまうかもしれない。
この2つはもともと始状態では1つの量子情報であったため、量子力学の量子複製禁止定理に抵触してしまう。
この危機的状況ですらも、相補性シナリオはすり抜ける。
地平面の膜に蓄えられた量子情報がホーキング輻射に転写されて外部観測者に渡されるまでにかかる時間の間に、内部に落下した観測者は特異点にぶつかって、所有していた量子情報とともに消滅してしまうと言うのだ。
それで特に量子複製禁止定理も破れないと解釈されている。
(註:この相補性シナリオは超弦理論の研究者には人気なのだが、一般相対論研究者の間ではあまり支持されていない。それは相対論的には地平面の位置が局所的に特別な場所ではないことが1つの理由である。事象の地平面は時空の大局的性質を知って初めて決定できるものであり、局所的な性質を調べてもそこが地平面の一部であるかどうかは分からない。そんな特別でもない領域に物理的膜という局所的実在が現れるなんて、信じがたいという立場。また相補性仮説では地平面内部の時空の特異点がシュワルツシルドタイプの空間的(space-like)形状になると考えて理論を構築しているが、地平面内部は強重力による不安定性があり、その特異点構造は摂動で簡単に変わり得る。例えば電荷をもったたった1つの粒子が地平面内部に入っただけで特異点は時間的(time-like)形状に変化する。また量子重力の効果で、特異点そのものが解消している可能性もある。実際のブラックホール内部がどのような時空構造をとっているのかは始状態の詳細にも依存するので、従来の相補性仮説で論じられている思考実験が普遍性のある結論を導いているのかも疑問視されている。)
このブラックホール相補性シナリオでは、地平面内部の空間はあるとされているが、この点に関して挑戦状を叩きつけたのが、マッサ(Mathur)のファズボール(fuzzball)仮説[3]やポルチンスキー(Polchinski)らのファイアーウォール(firewall)仮説[4]である。
彼等は自由落下する観測者に対してさえも地平面は特別な領域で、そこには熱い火の壁(ファイアーウォール)が存在して落ちてくる観測者を焼きつくすというのだ。
地平面内部に本当に時空が続いているのかを確かめに行く観測者を焼きつくし、「内部には本当は時空など存在しない。」という真実の情報を隠し続けるIT的な意味でのファイアーウォール(防火壁)という意味でもある。
量子情報理論の量子エンタングルメントのモノガミー(一夫一妻制)という性質から、あるパラドクスを提示して、それを解決するためには地平面には火の壁があるはずというのである。
この詳しい内容は、次回に。
Reference:
[1] S. W. Hawking, Physical Review D14, 2460 (1976).
[2] S. W. Hawking, Physical Review D72, 084013 (2005).
[3] S. D. Mathur, http://arxiv.org/abs/0909.1038
[4] A. Almheiri, D. Marolf, J. Polchinski, and J. Sully, http://arxiv.org/abs/1207.3123