Quantum Universe

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不思議の国のアリスがみた量子猫?

3月にあった研究会QMKEK(http://www-conf.kek.jp/QMKEK/)で弱値の講演をされたホフマンさん、細谷さん、筒井さんへ私がさせて頂いた質問の中に、量子チェシャ猫の話がある。

(註:弱値については

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/11/152110

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/20/233839

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/22/123604

を参考にして欲しい。)

チェシャ猫(Cheshire cat)とは、ルイス・キャロルが書いた「不思議の国のアリス」に出てくる変な猫のことだ。

薄ら笑いをする変な猫だが、もっと変なことに、その猫はしっぽから見えなくなり、最後に薄ら笑いだけ残して完全に消え去るのだ。

昨年アハロノフさん達が、この"猫"と同じ現象を量子力学で実現できるという論文[1]を書いた。

彼らは猫の代わりに、1つの光子を考える。

光子は右巻きだったり、左巻きだったりする、偏極というスピン自由度を持っている。

空間的に局在した光子本体がチェシャ猫の体とすると、偏極はその薄ら笑いだ。

ビームスプリッターと「弱測定」を使うことで、光子の本体(空間的自由度)部分と偏極の自由度部分とを、空間的に分離できるというのだ。

この性質は素粒子の質量や電荷も猫の薄ら笑いとして本体から分離できる可能性を示しており、多くの応用が期待できる「弱値」の面白い現象だとアハロノフさん達は主張している。

 果たして本当に、"量子力学"という名の不思議の国にはチェシャ猫が住んでいるのだろうか?

彼らの言い分は、こうだ。

まず入射光子をビームスプリッターに通して、その右側の経路にいく成分と左側に行く成分の2つに分けることにする。

右側に光子がいる状態を|R〉としよう。

同様に左側にいる状態を|L〉としよう。

また|+〉と|-〉とを、z軸スピンσ_zのアップ状態とダウン状態とする。

彼らはまずビームスプリッターを使って

|Ψ〉=(1/2)(i|L〉+|R〉)⊗(|+〉+|-〉)

という初期状態の光子を用意せよと命じる。

弱測定の文脈では、|Ψ〉は事前選択状態となる。

光子の行先は右側経路と左側経路に分かれるが、

先にある鏡と別なビームスプリッターによりこの2つの経路は交差する。

そこでは

〈Φ|=(1/2)〈L|⊗(〈+|+〈-|)+(i/2)〈R|⊗(〈+|-〈-|)

という状態に光子があるかどうかの理想測定が行われる。

そして〈Φ|が実現したデータだけを使う。

この〈Φ|が弱測定の文脈での事後選択状態だ。

この設定では、始状態|Ψ〉から終状態〈Φ|となるまでの中間の時刻に光子のボディは左側の経路、光子の偏極は右側の経路を辿ると彼らは主張する。

これが本当ならば、右側経路にまさに「チェシャ猫の薄ら笑い」だけが残ることになる。

物理量Aの弱値を 〈A〉_w=〈Φ|A|Ψ〉/〈Φ|Ψ〉と書くと、右側の経路に光子がいる状態への射影演算子P(R)=|R〉〈R|の弱値は〈P(R)〉_w=0となる。

これを彼らは以下のように解釈する。

終状態が〈Φ|となるデータだけを集めると、そのデータを示した光子はどれも伝搬の途中で右側経路を決して通らなかったと考えるのだ。

左側経路にいる状態への射影演算子P(L)=|L〉〈L|の弱値も〈P(L)〉_w=1となるため、光子は左側経路だけを通ったのだ、と彼らは言う。

一方、偏極はどうだろう?

光子が右側経路にいる時のz軸スピンを意味する物理量はσ(R)=|R〉〈R|⊗σ_zで与えられる。

光子のボディは右側経路にいないと判断したにも関わらず、この弱値が〈σ(R)〉_w=1 となるために偏極は右側経路に実際に「残った。」と彼らは言うのだ。

左側経路のz軸スピンσ(L)=|L〉〈L|⊗σ_zの弱値も〈σ(L)〉_w=0となって消えているため、左側経路にも光子のボディ「だけ」しかない、と彼らは解釈している。

 アハロノフさん達のこの不思議な物語は、本当に正しいのだろうか?

量子力学の世界では、このように物理的本体とそれが持つ物理的性質を空間的に分離できるのだろうか?

残念ながら、答えはNOだ。

まず〈P(R)〉_w=0を「右側経路に光子はいない。」と解釈したり、〈P(L)〉_w=1を「左側経路を必ず光子は通過した。」と解釈することの根拠がない。

一般の事前選択状態と事後選択状態を考えると、〈P(R)〉_wと〈P(L)〉_wは任意の複素数値をとれる。

このような場合に、0と1の値が特殊な意味を持つと主張するにはなんらかの説明が必要だが、彼らはそれを示していない。

またもっと直接的な論理の破たんが彼らの物語にはある。

まず偏極の自由度が本当に左側経路の光子本体からはずれて右側経路にだけいるのなら、すべてのスピン成分も左側にいないはずだ。

しかし計算してみると左側経路に光子がいる場合のx軸スピンの弱値は1となることが分かる。

従って、左側経路においてスピンをy軸回転させる操作を行えば、またz軸成分が左側にも現れる。

彼らの話の中でも、スピンが光子本体からはずれたと解釈するのは無理があるのだ。

さらに一般に左側経路のスピン自由度が無視できないことを理解できる簡単な説明がある。

もし本当に左側経路にスピン自由度が存在しなければ、f(0,0,0)=0を満たす関数を用いて定義される物理量f(|L〉〈L|⊗σ_x, |L〉〈L|⊗σ_y, |L〉〈L|⊗σ_z)に対する弱値もゼロであるべきだ。

ここで|L〉〈L|⊗σ_x、 |L〉〈L|⊗σ_y、|L〉〈L|⊗σ_zは、左側経路におけるスピン3成分の演算子である。

しかしこれには簡単な反例がある。

つまりP(L)=|L〉〈L|の弱値がゼロではないという事実だ。

これは|L〉〈L|⊗I=(|L〉〈L|⊗σ_x)^2+(|L〉〈L|⊗σ_y)^2+(|L〉〈L|⊗σ_z)^2の弱値がゼロではないことを意味している。

この反例は、スピンの大きさの2乗が任意の量子状態に対して同じ非ゼロ値をとるという単純な理由に起因している。

光子の偏極の自由度は、左側経路でも決して光子本体からはずれることはないのだ。

また上の反例は光子以外の素粒子のスピンでも同様に成り立つので、弱値の意味ですら一般的に粒子の本体からスピンがはずれないと言える。

当たり前のことが、当たり前として出てくる。

 QMKEKで私が質問をしたホフマンさん、細谷さん、筒井さんは皆さん口を揃えて、この量子光学系の実験結果を量子チェシャ猫と解釈してはいけないと答えてくれた。

細谷さん曰く、「私はネコ好きだが、量子チェシャ猫は嫌いです。」

先日アハロノフさんの長年の共同研究者でもあるバイドマンさんにも同じ質問をぶつけたが、彼もそんな変な猫の解釈にはならないと答えてくれた。

(アハロノフさんは彼の最近の研究を紹介してくれたらすぐに用事でいなくなってしまったので、チェシャ猫については質問できなかった。)

弱値を物理的実在と解釈することが本当に将来役立つことがあるのかという疑問を、自分は今も持ったままである。

追記(2014年3月28日):  アハロノフさんは結局COST2014では会えなかった。彼の量子チェシャ猫の話において、光子の本体部分を左側経路L、その偏極スピンを右側経路Rというように、2つを空間的に分離できると彼は主張した。そして空間的に分離していることで光子本体側を乱す事なく偏極側だけを操作できる保証を与えるような、新しい量子的技術が期待できるかもという趣旨が論文に書いてある。が、これは期待薄だと思う。もし本当にスピンだけがRにあるのなら、そのスピンをRだけで回転させる操作をしても光子の本体はLにだけ留まるはずだし、それが彼が期待している効果のはずだ。しかし現実にはそうはいかない。例えばU_R=exp(iθP_R⊗σ_z)というユニタリー変換は明らかにRのスピンだけを回し、Lのスピンは回さない効果を与える。θはその回転角である。しかし事前選択状態|Ψ〉にそれを作用させると|Ψ′〉=U_R|Ψ〉という状態になる。そしてこの操作の後、弱測定で再度Rには光子本体はいないことを確認しよう。すると〈P_R〉_{W}′=〈Φ|P_R|Ψ′〉/〈Φ|Ψ′〉という弱値が観測できる。(弱値は実部だけでなく、運動量表示で弱測定をするとその虚部も測れる。)しかし〈P_R〉_W=0だったのに対して〈P_R〉_{W}′はゼロでなくなり、複素数値をとるようになるのだ。従って、右側経路Rでのスピン操作は、同時に光子本体をRにも出現させるのだ。例えθを十分小さくしてU_Rを弱測定と同様の「弱操作」にしても、〈P_R〉_{W}′はθの1次に比例した値となり、消えない。このように「空間的に離れている。」という局所性に関する弱値の解釈は意味がないことが分かる。アハロノフさんが予想している量子チェシャ猫のメリットは実現しそうにない。

 Reference:

[1] Yakir Aharonov, Daniel Rohrlich, Sandu Popescu, Paul Skrzypczyk, http://arxiv.org/abs/1202.0631 .

 

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