弱値研究で主導的役割を演じてきた、バイドマンさんと話す機会に恵まれた。
彼がアハロノフさんと一緒に提案した「弱測定」の有用性に関して、量子情報理論から疑問視する論文[1]がPhysical Review Lettersに出ており、それに反論[2]をバイドマンさんが書いた直後であった。
彼との会話でも、これが話題にあがった。
この論争の出発点の部分は、自分も弱測定の話を聞いた当初から思っていたことでもあるので、今回はこのことを書いてみよう。
まず弱測定を説明しておこう。
これはアハロノフさんに言わせると、量子系Sの状態準備とその後の理想測定との中間時刻にSがとっている"実在量"、「弱値(weak value)」を測る測定である。
一般に複素数である弱値については、下記のブログも参考にしてほしい。
http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/11/152110
http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/20/233839
状態|Ψ〉に用意された注目系Sに対してある観測量Bの理想測定を行おう。
簡単のために縮退がないと仮定してBの固有値をb(n)と書き、このn番目の固有値に対する固有状態を〈Φ(n)|とする。
ここで〈Φ(n)|は敢えてケット表示ではなく、ブラ表示にしてある。
〈Φ(n)|B=〈Φ(n)|b(n)という関係が成り立っているという意味だ。
Bの理想測定は単にSの終状態〈Φ(n)|の指定のために行う。
弱測定の本当の興味は、Bがb(n)の値を持つことが確認できた場合に、そのBの測定をする前には他の物理量Aがどのような"値"を持っていたかにある。
特にAとBが非可換な物理量演算子の場合が重要だ。
そのためBの理想測定をする測定器以外に、Aを測るもう1つの測定器が必要だ。
それをここではDと呼ぼう。
Sに対してBの理想測定をする前に、非常に小さな結合係数gをもつ相互作用をSとDの間でさせておく。
その相互作用の形は、いわゆるフォンノイマンのポインター基底相互作用V=gA⊗pである。
ここでAは値を知りたいSの物理量、pは測定器系Dが持つメーターの針の位置xに共役な運動量演算子である。
この相互作用は有限の時間だけ存在し、Bの理想測定をする前には切れている。
ここでDのメーターの針の初期状態を|0〉と書こう。
gが非常に小さいから、Sのもとの状態|Ψ〉はこの相互作用の後でも大きく乱されることはない。
だからSはほとんど|Ψ〉の状態のままBの理想測定が行われるわけだ。
そこで特定のn番目のBの固有値b(n)が観測される時のDのメーターを調べよう。
gはゼロではないので、|Ψ〉に関する非常に少量の情報がDに書き込まれている。
それはDのメーターの位置xの期待値を、初期値〈0|x|0〉から少しだけずらす。
もし針の位置xが特定の値を中心にシャープな分布(〈0|Δx^2|0〉∼0)をしている|0〉ならば、このxの平均値のずれは少ない試行回数だけで読み取れる。
そしてSの状態の事後選択をしなければ、Dの測定そのものがAの理想測定に近いものとなり、DのメーターからAの固有値が読み取れるだけになる。
特に新しいことはない。
そこで弱測定では、|0〉を位置xの分散が非常に大きな状態(〈0|Δx^2|0〉∼∞)に設定する。
するとxの期待値のずれは多数回の実験を行って平均をとらないと見えてこない。
しかし労力を惜しまずにそのメーターのずれを測定してやるとBの結果の事後選択のために、そのずれはAの固有値ではなく、Aの弱値〈A(Φ(n),Ψ)〉_w=〈Φ(n)|A|Ψ〉/〈Φ(n)|Ψ〉の実部(real part)に比例することが分かるのだ。
この弱値はSが実際にとっていたAの値だとアハロノフさんは主張するわけだ。
この解釈は量子力学の哲学論争はもとより様々な議論を招くわけだが、今回紹介する論争は、もっと地に足をつけた現実的な部分に関係している。
それは「弱測定はどのくらい意味のあるものなのか?そして便利なものなのか?」という問いである。
よく主張される、「弱測定は弱値を実際に測れるから意味がある。そして弱値は弱測定で実際に測れるから意味がある。」という類のトートロジーとも関係しない。
例えば|Ψ〉に含まれている微小な未知パラメータyの値を推定したいために、実験家は実験を行うとする。
以下では状態にyの依存性を明記して|Ψ(y)〉と書こう。
弱測定で弱値の実部Re〈A(Φ(n),Ψ(y))〉_wを測って、その結果からyの大きさを推定をするのが賢いのかどうかが問題となる。
Re〈A(Φ(n),Ψ(y))〉_wを知るには、膨大なデータサンプリングが必要だ。
それは、Bの測定で〈Φ(n)|以外の結果のデータを捨てる事後選択(post selection)を行うためである。
また特定のn以外の弱値も測ってyの推定に活かすにしても、メーターの針が統計的にぼやけているために結局もの凄い回数の実験を繰り返す必要がある。
そこでyの推定には弱測定に比べてデータサンプリングを活かしたもっと効率のいい測定があるのではないか、と思うわけだ。
実際このような優れた測定の存在は量子情報理論的に示すことができる。
どのような測定および推定方法がyの値をもっとも効率よく言い当てるかまで理論的には分かるのだ。
問題は、その答えがいかなる弱測定でもないことだ。
むしろそれは特定の観測量の理想測定で達成される。
弱測定とは真逆の、もっとも強い測定だ。
この論法自体に穴はない。
この結果が弱測定の価値に大きな疑念を与えるのも、理論家からみればとても自然なことなのだ。
が、多くの実験家は弱測定の登場を歓迎している。
実際多くの実験が行われ、弱測定の優れた面を強調している。
研究室がもっている機械には一定の性能の上限があり、原理的にもっとも理想的な測定器を作ることはできないのが普通である。
現実の厳しい制限の中で、実験家は微小な量の推定を最大限行いたいわけだ。
一般にAの固有値の最大値と最小値の差が小さいと、Aの理想測定ではyの依存性を読み取ることは難しい。
しかし弱値では分母の〈Φ(n)|Ψ(y)〉がゼロに近ければ、固有値より大きな実部をもつことが可能だ。
それを測れば、通常の使用方法での機械の性能を超えた結果を得ることができる。
これを弱測定の増幅効果(amplification effect)と呼ぶ。
結局実験家の本音は、自分達が持っている測定器の系統的誤差(systematic error)の壁を越えて面白いデータを先取りできるか、ということなのだ。
それはそれで結構なことだ。
バイドマンさんの反論[2]も、この価値観を主眼にして行っている。
一方、多くの理論家は深い原理的価値を論じたいものだ。
時間とともに技術は進み、機械の性能が上がっていく。
特定のパラメータyの測定は、最初に弱測定で得られたラフな推定値を超えて精密化されていくだろう。
その場合、もっとも効率のいい測定と原理的推定誤差の限界に理論家は興味を持つわけだ。
これはこれで重要である。
量子パラメータ推定の観点から言うと、弱測定は膨大な統計(実験の試行回数)を必要とする、大変効率の悪い一般測定の1つに過ぎないのだ。
[1]の著者らは、速攻で[2]のバイドマンさんの言い分(と本質的ではない他の人からの言い分)に対して反論[3]を書いている。
相手の価値観の正しい理解にお互いが達するまで、彼らの論争は終わらないのかもしれない。
なおこの辺りの事情を理解するのに役立ち、そして数学的に厳密な結果が示されている研究としては、李-筒井の論文[4]がある。
どのような実験の場合に弱測定が有利なのかを一般的に論じている。
(もちろん、答えはケースバイケースだ。)
[4]は弱測定理論研究の1つの頂点を達成して、研究に1つの区切りを与えるものであろう。
Reference:
[1] C. Ferrie and J. Combes, Phys. Rev. Lett. 112, 040406 (2014).
[2] L. Vaidman, http://arxiv.org/abs/1402.0199.
[3] C. Ferrie and J. Combes, http://arxiv.org/abs/1402.2954.
[4] J. Lee and I. Tsutsui, http://arxiv.org/abs/1305.2721.