とねさんの日記の「鉛筆はどれくらいの時間立っていられるか?」という記事に、量子揺らぎとマクロな揺らぎを繋ぐJJサクライの問題が出ていて興味をひいた。
教科書のほうにはアイスピックを例として書かれていたようだが、NHKの番組では鉛筆が登場したため、とねさんも鉛筆で説明してくれている。
問題は以下のものである。
"ハイゼンベルクの不確定性原理だけが制限であるとき、鉛筆をとがった芯を下にして垂直に立てたとき、つりあいが保てる時間を見積もりなさい。鉛筆の芯を支えている表面は堅いとする。鉛筆の長さと質量は適当な値を仮定し、つりあいが保てる時間を秒単位で求めなさい。ただし「つりあいが保てる」とは鉛直線に対して1度傾くまでの状態のこととする。" (図1参照)
古典的境界条件は理想的に整えられており、まっすぐ立った鉛筆が倒れる原因は量子揺らぎだけとしよう。この仮定のもとで、具体的に三菱鉛筆(長さ=17.6cm、質量=6.6g)の場合に約4秒で鉛筆は倒れ出すととねさんは計算されている。秒単位にまで量子効果が拡大されているのは面白い。
もちろん現実的にはそのような実験環境は用意できないのだが、「鉛筆を立てる実験はミクロの世界で働いている原理がマクロの世界に影響を及ぼしていることを実感できる興味深い例」とコメントされており、自分も確かにいい問題だなと思った。
ただJJサクライの解答は、最小不確定性関係を満たすガウス状態のうち、倒れるのがもっとも遅いケースを論じており、より一般的なガウス状態ならば、量子揺らぎの効果だけで一瞬で倒れる例も作れる。(最小不確定性関係を満たすガウス状態がΔx∼0,Δp∼∞となる場合もその一例。)
サクライの教科書では、どのように鉛筆をまっすぐ立てるかという、量子状態の準備の話は略されている。
この状態準備は、例えばまっすぐ立つ位置が底となる外部ポテンシャルを鉛筆にかけて、零温度に近づけるなどで達成できる。図2ではバネでこのポテンシャルを表現した。
鉛筆の重心に対してこのバネは、正の調和振動子ポテンシャルを与える効果があるとしよう。
低温にするとその基底状態として最小不確定性関係を満たすガウス状態が鉛筆重心に対して設定できる。
そしてある時刻にバネを瞬間的に取り除くことで、鉛筆がどのように不安定になっていくかを議論できるのだ。
重力ポテンシャルの効果で、それ以降は図3のような負の調和振動子ポテンシャルの中を転がっていく粒子として鉛筆重心の運動は記述できる。
そのエネルギーは正の定数κを用いてE=p²/2-κ²x²/2とかける。
鉛筆重心の量子状態は、図4のように位置の平均値〈x〉を零のまま位置の分散Δxが広がっていくガウス状態となる。
位置の分散は指数関数的に増加するため、最初は小さく設定した位置の量子揺らぎも成長して、マクロな量になれる。
とねさんの三菱鉛筆の例だと、鉛筆が1度傾く程度になるまでのΔxと初期時刻でのΔxとの比はexp(30)程度、つまり約10の13乗くらいまで大きくなる。
とねさんの日記には奇しくもBICEP2の話も出ているが、実はインフレーション中のスカラー場の量子揺らぎも、鉛筆重心と同じ数理モデルで議論ができるのだ。
インフレーションを記述するドジッター時空の計量ds²=-dt²+a(t)²(dx²+dy²+dz²)を考えよう。
ここで宇宙のスケール因子a(t)はインフレーション中のハッブル定数Hを用いてa(t)=exp(Ht)であたえられる。
この時空上で質量零のスカラー場の零モード(空間的には振動しないモード)ϕ(t)をϕ(t)=x(t)/a(t)^{3/2}と書いてやると、x(t)はちょうど上の鉛筆重心の座標と同じになる。
加速度パラメータκはハッブル定数とκ=3H/2という関係にある。
鉛筆重心と同様に、空間の指数関数的膨張がスカラー場の真空の量子揺らぎ(零点振動)をマクロな揺らぎへと成長させるのだ。
ここで成長するのは位置揺らぎだけではない。
同時に運動量の揺らぎもマクロ的に成長する。
図5には座標xとその共役運動量pについての分散の時間発展を相空間に書いた。
原点付近のブルーの分布が初期の量子揺らぎである。
そして赤の分布が時間が経ったあとの量子揺らぎである。
特徴的なのはP(t)=p(t)-κx(t)で定義される相空間座標の量子揺らぎは時間とともに指数関数的に小さくなることだ。
P(t)の量子揺らぎを絞り込む(英語でsqueeze)ため、このようなガウス状態はスクィーズド真空状態(squeezed vacuum state)とも呼ばれる。
インフレーションや鉛筆重心の運動は、位置と運動量の揺らぎを大きくする一方で、ある成分の揺らぎを抑え込むのである。
スクィーズド状態は量子光学では簡単に作れて、様々な応用ができる。
また量子ホール系の端電流においても原理的にはスクィーズド真空状態を作ることができる。
これを利用した量子エネルギーテレポーテーション(QET)の実験も、現在東北大で計画されている[1]。
8月の基研研究会YQIP2014では、実験家の遊佐剛さんがこのQETに関連したお話をしてくれる予定である。
なおスクィーズド状態を用いるQETの関連記事は[2],[3]でも見れる。
追伸(2014/4/12):ハッブル定数Hと加速度κの関係式の因子を正しく直しました。
[1] http://xxx.yukawa.kyoto-u.ac.jp/abs/1305.3955
[3] http://phys.org/news/2014-01-theory-teleport-energy-distances.html