量子力学の解釈論は、いつも物理研究者間の会話をヒートアップさせるものだ。
多世界解釈派だ、コンシステントヒストリー派だと、騒がしくなる。
自分は極普通の「現代的コペンハーゲン解釈派」だ。
ここで「現代的」と付いているのは意味がある。
量子状態を実在とは見なさず、観測者が持っている系の知識に依存する情報的概念とする。
つまり実在論ではなく、認識論。
また人間やシュレーディンガーの猫を含むマクロ系まで量子力学は適用可能と明言する。
これが「現代的」という内容だ。
ただしフックスらの提案する、主観確率を用いた量子ベイズ主義(Qビズム)[1]と呼ばれる認識論的解釈とは少し距離がある。
自分は頻度確率だけでも量子力学は記述できると思っている。
しかし主観確率のQビズムを取り込む余地は常に開かれている。
伝わりにくいかもしれないが、ゲージ理論で例えると"ゲージ不変な"自由度が頻度確率。
Qビズムの主観確率は、本来は無用なゲージ自由度という感じだ。
ゲージ自由度である主観確率を考えると、記述がシンプルで分かり易くなる。
これについても、そのうち書いてみたい。
Qビズムに対する世間の理解で気になるのは、その主観確率の捉え方。
フックスらの提案が曲解されて、宣伝されている面がある。
例えば、シュレーディンガーの猫の話。
Qビズムでは「猫は生きているのか、死んでいるのかのどちらか」であり、量子状態はその「信念の度合い」を表すのだと、主張する人もいる。
フックスの代弁をすると、これは全くの誤解だ。(本人に確認した。)
Qビズムの主観確率は、猫はどの「純粋」量子状態にあるのかと予想する時の主観確率である。
情報が不足して予想が確定的でなければ、純粋状態を信念の度合いに応じて混ぜ合わせた混合状態で記述するわけである。
猫のようなマクロ系でもいいのだが、もちろん電子スピンなどのミクロ系でも同様。
そして電子スピンの干渉効果も(また猫の干渉効果も原理的には)Qビズムで記述可能なのだ。
だから「様々な可能性のうち唯一つだけが本当は実現しているはずだから、Qビズムでは状態重ね合わせによる干渉効果は記述できないのでは?」というのも全く違う。
猫を孤立系にできれば、"猫が生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせ"をQビズムでも考えることがもちろん可能だ。
ただその重ね合わせの係数に関する知識が欠落した場合、主観確率を用いるのだ。
そして外部環境と猫が相互作用をして猫が孤立系でなくなったときに、デコヒーレンスが猫に起きて、生と死の間の干渉項は消滅するという普通の話。
Qビズムで量子干渉が見えないというのは、的外れな主張なのである。
[1] C. A. Fucks, "QBism, the Perimeter of Quantum Bayesianism". http://arxiv.org/abs/1003.5209