セス・ロイドさんは、量子メカニックを名乗る、猛烈に頭の回転が速いMITの教授である。
量子情報分野では多くの良いお仕事をされており、また「宇宙をプログラムする宇宙」(早川書房)等のポピュラーサイエンスの本の著者としても有名である。
1988年の彼の博士論文での研究[1]が記事[2]に取り上げられていた。
今回このセスさんが考えていた周辺のことに触れてみたい。
量子エンタングルメントと時間の矢の問題である。
但し理解のための準備も必要なため、少し違う情報理論の入口から入っていこう。
まずアリスが1ビットの古典情報が書き込まれている電子スピンを持っているとしよう。
例えばz軸方向のダウン状態を0に、そしてアップ状態を1に対応させればこれは実現できる。
アリスはできるだけ安全にこの情報を秘匿しておきたいと願っているとしよう。
古典情報は簡単にコピーできるのが特徴であり、本来は最大の利点でもある。
実際図1のように、ボブが持っているスピンを近づけてある相互作用をさせると、アリスの持っていた1ビットの情報はボブのスピンに正確にコピーすることが可能だ。
もしボブからコピーの連鎖が起きれば、世界中にアリスの情報はいくらでも拡散してしまう。
しかし量子エンタングルメントを用いると、アリスはボブとの間だけで情報を安全に秘匿することが可能となる。
相互作用を変えると、アリスとボブのスピンの合成系を図2のようなベル状態(最大エンタングルメント状態)にすることができるのだ。
図2の0と1に対応している2つのベル状態|Ψ(0)〉、|Ψ(1)〉は互いに直交しており、2つのスピンを跨ぐ特別な測定(ベル測定)をすると誤差零で2つの状態を区別できる。
しかし片方のスピンだけを調べても、書きこんだ情報を決して得ることができないという特徴がある。
|Ψ(0)〉でも|Ψ(1)〉でも、図3のようにそれぞれのスピンを測れば0が出る確率は50%、1が出る確率も50%と一致している。
つまりアリスが持っていた情報の依存性が全くないのだ。
2つのスピンを持っているとその状態重ね合わせの係数に書かれている情報を読みとることができるが、単独のスピンだけからは決して情報は漏れない。
つまり2つのスピンは図4のように「割符」として使うことができる。
一般に割符は2つのパーツが揃ったときにだけ情報が読み取れるものだが、この量子割符には安全性が物理法則によって原理的レベルから保証されているという利点がある。
さてここでセスさんの話に戻ろう。
セスさんは博士課程の学生の頃、時間の向きの存在理由をこの量子エンタングルメントに見出そうとしたのだ。
通常の相互作用は、量子的にもつれていなかった粒子達をどんどんエンタングルさせて行く。
個々の粒子が持っていた情報は、上述の量子割符のように、非局所的なエンタングルメントという形で保存されるようになる。
どの部分系でもまるで情報が消滅したように見えるが、全体として情報は全く失われていない。
図5のように、熱平衡から大きくずれた初期状態にある多体系では、時間とともに相互作用を通じて粒子群はもつれ合いながら発展していき、その情報を蓄えるエンタングルメントの構造も大規模化していくのだ。
この現象が時間の矢の本質であるとセスさんは考えていたのだという。
この設定ではエンタングルメントに蓄えることで情報を少しも失うことなく、時間の向きを論じることができるようになる。
この観点に意味があるのなら、緩和の各素過程で増加し続けるはずの量子エンタングルメントは、緩和の終状態である熱平衡状態において「何らかの意味で」で最大になっているはずだ。
しかしそれを確かめるのは簡単ではない。
そこで、熱平衡状態は典型的なカオス状態の1つに違いないという前提のもと、彼は多体系の「典型的状態」の量子エンタングルメントを調べてみたのだ。
自由度の大きな多体系において、純粋状態の集合を考える。
それは一般に高次元のヒルベルト空間の中の単位球面となる。
そして彼はその系を2つの部分系に分け、その2つの系の間のエンタングルメントの分布を計算してみたのだ。
確率測度はさきほどの単位球面上でとる。
得られた結果は彼の期待に応えるものだった。
その典型的な値は量子エンタングルメントの最大値にほとんど等しかったのだ。
つまり典型的カオス状態である熱平衡状態も、やはり量子エンタングルメントが(ほぼ)最大となる状態と考えられる。
時間が流れる向きはエンタングルメント(量子的相関)を最大にする向きと確かに一致するというのが彼の出した答えである。
この結論を含む彼の博士論文は提出当時ほとんど顧みられることはなかったそうだ。
量子情報理論は当時「大いに不人気だった。」("was profoundly unpopular.")
論文を学術誌に投稿しても「この論文には物理がない。」("no physics in this paper")と査読者から酷評されたらしい。
ところが彼のこの仕事は統計力学の分野だけでなく、最近ではブラックホールの情報喪失問題でも重要視されるようになったのだ。
(註:例えば最近ポルチンスキーさん達が提案したブラックホールファイアーウォールの話の基礎になっている「Page Curve」や「Page Time」の概念を導くのにも、彼等の論文は引用される。これについては下記の記事を参照。
http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/15/112849
なお[1]の共著者は、彼の指導教官。)
面白い話である。
ところで時間の矢の問題はセスさんの話で終わったのだろうか。
現実はそう簡単ではない。
量子エンタングルメントは典型的な多くの場合に相互作用を通じて大きくなるが、そうでない場合もある。
十分長い時間をかけると、任意の状態の近傍に物理系を時間発展させることが可能なのだ。
(但しその時間は宇宙年齢をはるかに超える長時間かもしれない。)
つまりほとんどの時間領域でエンタングルメントが増加していても、ある時刻から減少に転じて熱平衡から大きくはずれた低エンタングルメント状態になることも起きるのだ。
この再帰性はエネルギー一定を満たす状態集合の「面積」が非常に大きくても有限であることに起因している。
図6のように、(E,E+ΔE)の間のエネルギーを持つエネルギー固有状態で張られる部分ヒルベルト空間を考えよう。
これらの固有状態の重ね合わせで作られる純粋状態の集合は、この空間の単位球面となる。
そしてその上に図6で青色に塗られているような微小領域を考える。
時間発展演算子Uでこの青色領域の中の純粋状態全てを発展させると、その微小領域は球面上を移動していく。
領域の形は変わっていくが、重要なのはその面積は不変であるという性質だ。
そして図7のように、このUを何回も作用させてどんどん青色領域を移動させていこう。
球面の面積は有限であるため、そのうちに必ずもとの微小領域とオーバーラップを生じる。
この事実は、いくら領域の面積を小さくしても有限である限り、変わらない。
このために状態の再帰性が導かれる。
セスさんの結果[1]を踏まえても、時間の矢の問題について多くの研究者はもっと精密に問題設定から熟考する必要があると考えており、現在まで多くの取り組みがなされてきた。
そして孤立系の熱的純粋状態(Thermal Pure State)研究の最近の進展へと繋がっている。
追記:説明をセスさんの博士論文の内容により忠実なものに変更しました。(2014年5月13日)
[1] S. Lloyd and H. Pagels, Ann. Phys. (NY) 188, 186 (1988).
[2] "Time’s Arrow Traced to Quantum Source", https://www.simonsfoundation.org/quanta/20140416-times-arrow-traced-to-quantum-source/