Quantum Universe

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『入門現代の量子力学』補足

教科書の第3章に関連したコメントがあったので、補足をします。この教科書は、既存の実験結果、もしくは未知の対象系に対して実験で将来検証可能な形の仮説を与え、それを用いて沢山存在する理論の可能性の中から、量子力学という1つの定式化を作っていくというスタイルです。第3章では、第2章の2準位系の量子力学の定式化を多準位系に拡張することが書いてあります。

 

そのコメントとは、「多準位系で純粋状態が複素列ベクトルで表せることや、そのボルン則を示すことなどを演繹的に示すのは、強引な前提を導入しない限り難しいのではないか」「なぜ多準位系で複素ベクトル空間を考える必要があるのかを論理的に説明することは困難だろう」という趣旨の内容でした。指摘されたこのコメント自体は、後で説明をするように、実はこの教科書の論理の流れには当たらないのですが、教科書には厳しいページ数制限があったために、十分な説明が足りていなかったようです。また2準位系と「みなす」ことや3準位系と「みなす」という意味についての部分が抜けていましたので、それらの補足説明を以下でしたいと思います。

 

まず再度強調したいことは、量子力学は確率論に基づいた情報理論の一種であり、そのような理論は量子力学以外にも無数にある点です。その多準位系の理論でも、既知の2準位系の定式化を様々に拡張する可能性もあり、それぞれについて理論を作ることが可能です。ただその多くは既に実験と合わないことも知られています。そこでどのような実験事実、または実験可能な仮定を基礎とするかが構成の鍵になります。

 

まず第2章の2準位スピン系の話から参りましょう。教科書では基準測定であるスピンz成分のシュテルン=ゲルラッハ(SG)実験を使って、量子力学の体系を作っています。なぜ2準位系と「みなす」かと言うと、装置から出てくるのが区別された2つの状態であるからでした。

 

ただ現実の物理系の実験は全てのエネルギースケールで行っているわけでもありません。例えば現在行われている高エネルギーの素粒子実験では、電子のスピンは確かに2つの状態のみを持つことと整合した結果しか得られておりません。しかし可能性として(これは深い理由があるものではなく、単なる論理的な可能性ですが)、より高いエネルギーで実験をすると実は電子スピンにはもう1つの状態がある3準位系になっていても良いわけです。もちろんそのようなことを示唆する実験も理論も現在ありませんが。

 

仮にそういうシナリオを考えたときに量子力学でのそのスピンの扱いはどうするかという問題があります。これに対しては2つの可能性があります。

 

まず第1の可能性として、SG実験で出てくる出力ビームが3本に分岐する場合があります。このときは2準位系の扱いのままで良いわけがありません。きちんと3準位系として理論を組み立て直す必要があります。

 

第2の可能性は非常に変わった状況ですが、基準測定としてのSG装置から出てくるビーム自体は常に2本のままという場合です。SG実験以外の測定法では新しい高エネルギー状態の寄与が観測できるのですが、元々使っていた低エネルギー領域での物理量のみを測るSG実験では、その高エネルギー状態の寄与が全く見つけられない場合です。この場合は、第2章2.1.2節のスピン期待値のベクトル性さえ満たせば、それ以降の教科書の議論はそのままその3準位系に使えるのです。つまり3準位系の低エネルギー部分に対しては、2準位系量子力学の枠組みでそのまま記述できます。そしてその量子状態を密度行列や状態ベクトルで表現することが可能なのです。高いエネルギー領域では異なる理論でも、同じ2準位系量子力学で記述できるということになります。実はこの量子力学形式の汎用性の高さが現れるのは、高エネルギー領域では異なる理論に限りません。例えば1つの2準位スピン系ならば教科書付録Gにある隠れた変数の理論でもSG実験の結果を再現しますが、この局所実在論すらも、複素ベクトルや行列を用いた2準位量子力学で書き表すことは可能なのです。様々な理論を飲み込めるこの量子力学という言語の枠組みの懐の深さは、後で見るように2準位系に限らず多準位系でも同じです。

 

このように、まず2準位スピン系の2準位量子力学が作られました。このことから教科書で触れているように、一般の2準位系でも同じく、その2次元状態空間に作用する任意の2次元ユニタリー行列には、対応する物理操作があるわけです。「あるわけです」とさらっと書きましたが、ここに重要な(でも極めて自然であり、従来はわざわざコメントもされない)理論の仮説がまず入っていることに注意をしてください。

 

一般に物理学の基礎的な理論を作るとき、個々の物理系ごとに異なる法則や定式化を作ることは行いません。全ての系に共通する普遍的な法則を記述するために、どんな物理系にも適用可能な一貫した理論体系を構築する必要があります。教科書第2章で扱われる2準位系は主に2準位スピン系でした。その特別な系で成り立つ方向量子化やスピン期待値のベクトル性の実験結果に基づいて、ボルン則や量子状態の重ね合わせの存在を示したわけです。その特定のスピン系で作られた理論が他の任意の2準位系(それは未知の物理系かもしれませんが)でも成り立つような理論であると仮定する姿勢は、普遍性という物理学の目的を考えると、極めて自然で正常な姿勢とも言えます。それで未知の系も含めた任意の2準位系に対しても、第2章の定式化によって「2準位系量子力学」という理論自体を定義しました。後は未知の2準系が見つかるたびに、この理論が実験と整合するかを確かめ続ければよいのです。

 

さてまだ見つかっていない物体に対しても適用をしたい。このような理論の普遍性を、多準位系の量子力学という理論に課すのはとても自然なことです。ただし今はもう2準位系の量子力学を作ってしまったので、それと整合するように多準位系量子力学を構成するべきです。教科書の第3章でも、そのような精神に則って理論を構築してあります。

 

以下では先のコメントにある内容が第3章の論理展開には当てはまらないことを理解するために、具体的に3準位系を例として用いて、補足をしたいと思います。まず2準位系と同様に、実験設定から第3章は始まっています。2準位スピン系のSG実験と同じ役目をする基準測定の話です。

3準位系なので、図1のように左側から量子系を基準測定の装置に入れると、右側には3つの異なる状態が出力されます。それらを上から状態1、状態2、状態3と呼ぶことにします。ある状態にある3準位系を測定機に入力したとき、図2のように状態1にその系が現れたとしましょう。

この状態1は純粋状態の1つであると定義をしたくなる理由は、出てきた系にもう一度同じ基準測定をすれば分かります。これは例えばスピン量子数が1である3準位スピン系を、SG装置に通す実験を思い出せば、より分かりやすいでしょう。図3のように、必ずその系は再び状態1に確率100%で現れます。これは2準位系のSG実験の拡張であり、たとえ未知の3準位系でも、必ずそのような測定機を作ることが可能であるという仮定を、理論として行います。これが量子力学という理論なのです。ここで注意して頂きたいのは、この仮定自体は将来実験で検証可能ですが、そのような実験が行われて理論の予言通りになったときだけ、量子力学という理論はその系に適用可能という点です。もし成り立たなければ、その時には量子力学を捨てる必要が出てきます。網羅的な実験を行って、ある特定の物体には基準測定が存在しないという結果を得た人は、間違いなくノーベル賞を受賞することでしょう。(その未来にノーベル賞自体があればですが。)

2回目の基準測定の結果が変わらないこの性質のことを、反復可能性と呼ぶこともあります。量子力学がその系に適用可能なためには、この反復可能性が状態2や状態3でも同様に成り立つ必要があります。図4のように状態2に用意された系を再び測定しても、図5のように状態2として観測されます。状態3でも同様で、図6図7のようになります。

 

 



 


この基準測定で同定される純粋状態に物理操作(これは未実験の高エネルギー領域での測定は含まない条件での任意の測定や確率混合も含みます)を行うことで、様々な状態の準備が行われます。そしてこの状態の集合が、3準位系量子力学での状態空間として定義されるのです。

 

このように状態準備でも物理操作が重要なので、それを次に考えましょう。第2章の2準位系でも空間回転という物理操作が重要でした。多準位系でも、第3章では物理操作を一番の注目ポイントにして考えていきます。

図8のように、基準測定をする前にその系に対して物理的な操作を行ってみましょう。この各状態が出現する確率は、その物理操作に依存するようになります。なおこの物理操作が、高エネルギー領域で初めて現れる第4の状態の寄与を系に与えたとしても、装置からの出力は常に3つであり、その出現確率の和は1であることが、先に述べた通りに前提となっています。

 

ここで第2章の2準位スピン系での方向量子化と同じことを実験装置で確認をしておくのは重要です。つまり任意の物理操作をした後でも、装置から出てくる状態1、状態2、状態3を表す信号の装置内での位置はその操作に依存しないという点です。これは既存の3準位系の一部では実験的にも確立している事実であり、また未知の3準位系に対しては、量子力学ではそれを仮定する(または予言する)ということになります。このおかげで、左から入力された対象系ビームに対する3本の出力ビームの位置がその操作によってどのくらい移動するかなどの詳細を気にする必要はなくなり、図8のように3本の出力状態が出ているだけの情報しか描かれていない簡単な図を使って、本質的なことが議論できるのです。この辺りのことは、図を用いた操作論の量子論の数学的な教科書等ではあまり触れられていない、物理学として重要な隠れた前提だったりします。操作を表す図を組み合わせた数学的な取り扱いの裏には、このような物理的な、または実験で積み重ねられた多くの事実が前提とされています。この物理的な前提の重要性も、本当は実証科学としての量子力学において強調されるべき点だと考えられています。

 

図9のように、状態1に用意された系に対してある操作を行うと、状態3が出る確率は零のままで、状態1と状態2が観測できる確率がそれぞれ非零になるような状況を考えます。この「考えます」というのは、「量子力学という理論が正しいとすると、そのような物理操作が世の中に必ず存在するはずである」という意味です。ある未知の3準位系が本当に量子系であるかどうかを確認するためには、基準測定の反復可能性の実験の後に、そのような実験を一生懸命試みる必要があるのです。なおこれは理論物理学者の仕事ではなく、実験物理学者の腕の見せどころでもあります。

さてうまく実験家が図10のような測定を実現できたとしましょう。このとき図9の物理操作によって、状態1と状態2の間の「2準位系」を構成できたことになります。この「2準系」に対して教科書第2章の理論の予言を確かめる実験を行うわけです。量子力学という理論は、任意の2準位系のどれでも、全く同じ定式化で記述されると宣言をしているわけですから、それを実験で確かめられます。無事そのテストを合格して、第2章の2準位系量子力学が生き残るのならば、その部分では必ず状態ベクトルや密度行列で状態は定義可能となります。また普通の実数値で定義された任意の2準位系の物理量も、エルミート行列を使って表示することが可能になります。

 

図9や図10では状態1と状態2に注目をしたわけですが、ここで状態3を仲間外れにすることは不自然です。ですから同様に、例えば図11や図12のように、状態2と状態3も2準位系とすることを理論として許容することはとても健康的です。ただこれも実験家が頑張って後で確かめることになります。

同様に、状態1と状態3からも第2章の2準位系が作れるわけです。

 

以降では、図13のように、物理操作を可逆なものに限定してみましょう。第2章のスピン系では、それは空間回転という操作に対応し、ある角度の回転操作の逆操作は、符号を変えた同じ大きさの角度の回転操作でした。このような可逆な物理操作が多準位系でも存在すると仮定をします。これも確かめるのは実験家です。(怠け者の理論家に比べて、実験家はいつも大変なのです。)

 

3準位系では、第2章の意味での状態1と状態2の間の2準位ユニタリー的物理操作と、状態2と状態3の間の2準位ユニタリー的物理操作とがそれぞれ可能です。その行列と具体的な物理操作の紐づけも実験で可能であり、その紐づけ対応の全体的なリストを作ることもできるはずです。また物理操作なのですから、図14のように、その2つを対象系に対して連続して実行することも可能なはずです。

 

 

その操作の後で基準測定をしたときに、現れる各状態の確率はどのように計算されるべきなのでしょうか?状態1と状態2の間の物理操作は、第2章の2準位量子力学で図15のように2次元ユニタリ行列で既に表現されています。状態2と状態3の間の物理操作でも、図16のように同様にできます。

 



ここで図17のように、各2準位系としての2次元ユニタリ行列を並べてみましょう。



例えば状態1と状態2の間の2準位ユニタリな物理操作は、状態3に全く影響を与えないと仮定することは自然に思えます。同様のことが状態2と状態3の物理操作、状態1と状態3の物理操作にも言えます。この方針で拡張をして得られる理論こそが、実は3準位系の量子力学なのです。これを理論として実現させるのは簡単です。図18のように、各2準位ユニタリ行列に、影響を与えない状態に対する射影演算子を加えるだけで良いのです。赤字で強調した寄与がそれです。

 

 

この仮定も未知の3準位系に対しては実験で確かめるべきことですが、既存の3準位系では、実際にこの性質が成り立っていることも実験で検証済みであることも多いのです。また図18のユニタリ行列を組み合わせて掛け算をすれば、N=3の場合の(3.11)式のように、任意の3次元ユニタリ行列が再現できます。(3.11)式右辺の各2準位ユニタリ行列には物理操作が既に紐づけされているのですから、その物理操作を(3.11)式右辺の積の右から左に向けて順番に行えば、(3.11)式左辺の3次元ユニタリ行列に対応する物理操作が作れます。この事実を踏まえて「任意の3次元ユニタリー行列に対して物理操作が存在する」という仮定によって定義されるのが3準位系量子力学であると、図19のように教科書第3章で説明をされているのです。実際には一般のN準位系で解説をしています。N=3の場合と同様に、教科書の(3.11)式左辺のN次元ユニタリ行列に対応する物理操作は、右辺に現れる2準位ユニタリ操作の組み合わせで物理的に実験できます。したがってどのように実験をすれば良いのかについても、とても見通し良いものになっているのです。

 



 

後は第3章3.2節の話を踏まえることで、多準位系で純粋状態が複素列ベクトルで表せることや、そのボルン則を示すことなどが実際に「演繹的」に示されているわけです。

 

それをもう少し丁寧に解説をしておきましょう。方針は第2章の2準位スピン系の定式化です。それにはスピン期待値のベクトル性にあたる現象をきちんと押さえておく必要があります。そのためまずは普通の量子力学を先取りして、第3章の順に沿って10個の物理量の測定を行い、その期待値を評価します。そしてスピン期待値のベクトル性の拡張版の関係式の形を3準位系で押さえておきます。(何を測定すれば良いのかの目星をつけるために量子力学の先取りはしますが、その実験に基づいた量子力学の理論構築の話はトートロジーにはなりません。全ての量子力学の知識を忘れて、得られた実験データのみから一意的に量子力学の体系を再現する話になっています。)

 

ここでは知っている量子力学を仮定してこの関係式を先に作っておくのですが(2準位スピン系でのスピン期待値のベクトル性の関係式も、その形は実験の前に事前に計算して知っていたのと同じ)、この得られた関係式に出てくる諸量は後で全て実験で検証できるものになります。そしてこの途中計算を完全に忘れて実験だけをし、「スピン期待値のベクトル性の拡張版の関係式」が実際にデータで確かめられたと仮定して、元の3準位系量子力学の理論体系を、実験データだけから一意的に再構築できるかという問題を改めて考えるのです。

 

ではその関係式の形を知っておくことから始めます。(3.11)式でN=3とした関係に現れる2つの2準位ユニタリ行列は、図21のようにそれぞれがある具体的な物理操作に紐づけされています。

この2つの物理操作を連続することで定義される図22の物理操作が、先ほどの3次元ユニタリ行列に対応する物理操作であると同定されます。そして実験ではこの紐づけを使います。

 

つまりこの合成された物理操作を対象系に実験で作用させて、その後で基準測定を図23のようにするのです。この基準測定では各状態が現れる確率分布が定まります。それを使うことで、第3章の(3.2)式と(3.3)式を満たすように定義された2つの物理量を測定し、その期待値を図24のように計算します。この物理量は、回転操作をして傾けた方向の2準位スピン成分の3準位系への拡張になっています。これが済むと、教科書第3章3.1.1節(3.5)式から、この2つの期待値によって図25のように各状態の出現確率が得られます。

ここで第3章3.3節にありますように、この図25の実験はエルミート行列で指定される任意の物理量の測定にもなっていることに注意をしてください。

 

量子力学という理論の目的は、与えられた初期状態に対して任意の物理量の値の確率分布を計算することにあります。ですから図24の設定の実験をすることが不可欠です。これが2準位スピン系でのスピン期待値のベクトル性の関係式の拡張を3準位系に与えます。

3.3節から3.8節までの議論を辿ることで、図27のように各状態や物理操作は密度行列とユニタリ行列で書かれることが保証されます。それが操作後の確率分布を定める2つの物理量期待値と、操作をしないで測定した8個の物理量期待値の関係式を与えるのです。

 

まずトレースの性質を使って、図28中の数式のように、2つの期待値の式は変形できます。



図28の右辺に現れた行列は、図29の数式のようにSU(3)代数の元である8個のエルミート行列を使って書けることが数学で知られています。これを使うと

と2つの物理量期待値は計算されます。そのため最初の2つの物理量期待値は物理操作をしない状態で測定された8つの物理量期待値と下記のように結びついていることが示されます。



この関係式こそが、図32のように、2準位スピン系のスピン期待値のベクトル性の関係式の拡張になっているわけです。



この関係式は実験で検証できる操作論的なものになっています。この関係式が実際に実験で確定さえすれば、その実験データだけから3準位系の背景にある理論は、第2章のように状態ベクトルやエルミート行列で書かれる量子力学の形式で表せることが、自然に演繹されてくるのです。

 

ではここで3準位系及び多体系の量子力学の定式化のための前提をまとめておきます。



 

 


もう少し具体的に、図32中の関係式が実験で成り立つ確率論は、必ず量子力学で書けることをN準位系で見てみましょう。教科書の(3.11)式をまず思い出してください。これはN×Nユニタリ行列の数学から得られる関係式で、いつでも成り立ちます。

 

右辺の各2準位ユニタリ行列はそれぞれ既に具体的な物理操作と紐づけされています。そこで実験では、図34のように連続した物理操作を左辺のN次元ユニタリ行列に対応させます。




次に教科書3.1.1節で解説されている物理量と基準測定を考えます。すると(3.5)式が導かれます。

 

 

 





この図35の実験をすることで、図36中のスピン期待値のベクトル性を示す関係式の拡張版が成り立つことが確認されたとします。

 





特に図36に出ている関係式右辺に現れた係数は、図37に書かれている群論の関係式の係数と一致していることも実験で確かめられたとします。この実験結果が成り立てば、この系を記述する確率理論は行列を使った量子力学で表すことができるのをみてみましょう。




この実験の背景にある確率理論を量子力学の表記で書くには、図38中にある量子状態トモグラフィの数学的関係を用います。





この量子状態トモグラフィの関係式を使えば、図36の関係式左辺のN-1個の物理量期待値は

と計算できるわけです。そしてこの計算の最後の式において

と書いてみます。すると図35中に出てきた確率は下記のように書き表すことができます。

ここで教科書の(3.21)式を使います。これも単なる数学であり、いつでも成り立ちます。

これを使えば、下記の関係も導けます。

また図35中に出てきた確率は、簡単に次のようにも表せます。

これは量子力学のボルン則そのものですね。この関係式の左辺でkの和をとれば、全確率が1であることから、密度行列のトレースはいつも1であることも示されますし、また実験で確かめられた図36の関係式を踏まえると、図37のN次元ユニタリ行列は任意にとれるので、確率の非負性から密度行列の非負性も再現できています。

 

この教科書では、基準測定の出力として出てきた1つの純粋状態には、(3.6)式の状態ベクトルを定義として対応させます。基準測定機から出力されたk'番目の純粋状態に対して何も他の物理操作をせずに2回目の基準測定をすれば、反復可能性から測定結果は100%同じk'を出します。他のk'の値が出る確率は零です。そしてこの純粋状態に先の物理操作をした後の状態は下記のように表されます。

ここで操作後の状態ベクトルを下記のように導入することができ、よく見る状態ベクトルに対するボルン則が得られます。ここに現れたN次元ユニタリ行列は(3.11)式から任意のユニタリ行列をとれます。従って任意の状態ベクトルがこの系の1つの状態を記述できることが分かりました。

これまでのことが、教科書第3章3.2節の終わりに書いてある「ただしこの前提は、飽くまでも各系において、実験で検証されるべきことである。」の詳しい内容となっています。この議論では、全て実験で検証可能な仮定ばかりを使っていますので、「強引な前提」は導入されておりません。そのような自然な仮定に基づいた拡張によって、一般のN準位系でも、複素ベクトル空間で記述可能な量子力学という体系が組みあがっているわけなのです。どんなNの値に対する未知の系であっても、量子力学は上で述べた実験可能な仮定から絞られている理論であるということは、とても興味深いですし、重要なことだと思っています。

 

再び強調しておきますが、今後も観測されたり、作られたりした物理系が「量子系」であるかどうかを実験で確かめ続けることは、とても大切です。量子力学は飽くまで実証科学の物理学の理論であり、実験に基づかない抽象的な数学的公理から導けるものではありません。その意識をしっかりと読者の皆さんにも持って頂ければと願っております。

 

最後ですが、この「補足」は、中平健治さんと松本啓史さんとの議論の中から刺激を受けて、何度も再整理をし、加筆をいたしました。彼等に感謝いたします。

 

追記:量子力学という理論の公理や前提を最初に述べて、その理論の帰結を示していくスタイルの教科書が主流ですが、そのデメリットもコメントしておきます。ある物理系が量子力学で記述される量子系であることを実験で確かめたい場合、公理から予言される現象をいくら実験で確認しても、どの段階からその系が本当に量子系であると断言できるかが曖昧なわけです。「これだけ沢山整合する実験結果もあるし、多分量子系であろう」という感じに終始してしまうのが、公理から出発する量子力学体系の弱点です。本教科書のスタイルには、最小限これだけの実験をして理論と整合をすれば、その系は完全に量子力学を満たす真の量子系であると断言できる強みがあります。

 

追記2:あるnoteで以下の批判がありました。ほぼ誤解だけの内容なのですが、コメントをこちらに書いておきます。

 

まず量子論観測問題はないという主張は以下の理由で誤解だと主張されていました。

  • 測定は『誰』が行えるのか?(例:無生物は測定できるのか?)

  • 測定とは具体的にどのようなプロセスを行うことなのか?

  • 測定は厳密にどのタイミングで行われるのか?(「波動関数はいつ収縮するのか?」のように表現される場合もあります)

これらの問題は,少なくとも完全な正解が得られていないという意味で未解決だという主張だそうです。しかしまず欠落している大きな視点として、これらは量子論固有の問題ではないことが指摘できます。確率を扱う理論で、初学者が混乱する部分を列挙しているだけのように思えます。例えば古典確率論において「測定は『誰』が行えるのか?」「測定とは具体的にどのようなプロセスを行うことなのか」「測定は厳密にどのタイミングで行われるのか?」という問題を挙げて、古典理論にも「観測問題」があると大げさに主張する方は、私は見たことがありません。量子論だけ特別扱いして「観測問題がある」と主張されるのが、むしろ不思議に思えます。また量子論でも古典論でも、挙げられた問題についての理解は既にあるわけです。ここで確率理論において「測定」とは以下のように定義しておきます。サイコロの目のように、ある確率分布をしている対象系の独立な事象(サイコロならば1から6の目が出る事象)からただ1つの事象(例えば3の目が出たという事象)が選ばれたという体験を「測定」と呼ぶことは自然です。少なくとも多くの方はサイコロの目は1から6のうちのどれか1つだけを観測認識していますよね?でも、確実に1つの事象が選ばれたと認識できたと主張できるのは、その人本人でしかありません。他の人間も同様に同じ目が出たと主張をしても、嘘をついている可能性すらあります。本当に1つの事象が選ばれたと言い切れるのは、飽くまでその<私>という意識をもったその人だけです。他の人間は実は意識を持たないAIであっても、実はその発言からは区別がつきません。ですからそもそも論として「測定は『誰』が行えるのか?」という問いは、実証科学的な答えを与えようがない不良設定問題なのです。形而上学的哲学としては問題に成り得ても、実証科学としては無意味なものなのです。

次に「測定とは具体的にどのようなプロセスを行うことなのか?」という質問ですが、これも量子論に限らない問題です。むしろ古典力学的領域の分野である脳生理学などの分野での問題とも言えます。これをもって「量子論には観測問題がある」と騒ぐのは、全くおかしなことだと思います。

 

「測定は厳密にどのタイミングで行われるのか?」という問いの大部分も、上の問題と同じで量子論固有の問題ではありません。また確率論において、測定を行う観測者の指定がなければ、「どのタイミング」も答えようがないのは自明です。観測者を指定すれば問題は設定可能です。その場合は、その観測者の脳に対象系の情報が記憶領域に格納されるタイミングこそが「測定」の時刻となるでしょう。これも脳生理学の問題となります。ですからこれによって「量子論観測問題がある」と主張するのも、あまり内容がないと思えます。

 

また「測定を行うためには意識の存在が不可欠である」は誤解であるという主張がありました。これもおかしいです。測定とは多くの可能性の中からただ1つの事象が選ばれると認識することなのですから、その「認識」をする主体を前提として考えているはずです。その主体に便利のために名前を付けて「意識」としているだけの話です。本質的に中身のある内容ではありません。

 

次に「波動関数は実在しない」というのは誤解という主張もありました。実在の定義次第という理由らしいのですが、これもおかしいと思います。たとえば波動関数は現在では物理量の確率分布だけからきちんと数学的に定義される対象であることが明確になっています。前世紀のように正体不明な対象では無くなりました。波動関数の正体は単なる確率分布なので、波動関数を物理的実在だと呼ぶならば、確率分布も物理的実在と呼ばなくてはいけません。でも少なくとも数学的確率分布のことを物理的実在であると主張する人は極めてレアだと思います。確率分布はその対象系の事前知識の多寡によって観測者毎異なるからです。Aさんにとってのサイコロの目の確率と、Bさんにとっての同じサイコロの目の確率は、一般に異なってよいのです。(たとえばBさんは箱の中にあるサイコロの目を箱裏の窓からこっそり見て知っているけれど、それをAさんは知らない場合など。)つまり観測者の事前知識に対する依存性があるという理由で「確率は(物理的)実在でない」と自然に述べるのならば、「波動関数は(物理的)実在ではない」と明確に述べられるのです。

 

次に「この世界の全ては量子系である」というのは誤解だという主張についてです。私の立場では、これは「誤解」というよりも、様々な物理系に実験を行い続け、実証科学として検証し続ける研究テーマという位置づけです。一方で、これまでの多くの実験観測の結果からは、量子系ではないと判断された例は1つも見つかっておりません。その意味で「この世界の全ては量子系である」という仮定は、日々強化されている現状だと言えます。なお「量子系」の定義はこの補足で先に述べたものになります。ある未知の対象Xに対して、上に述べた方法で確実にXが「量子系」であるか否かを決定できます。一方で、専門家を名乗る人の中には、Xだけでなく宇宙全体を調べつくさないとXが量子系であるかどうか分からないという定義や主張をする方もいます。局所トモグラフィ性という性質が「量子系」であることを導くことに重要であると主張をされたりしていますが、宇宙全体を調べ尽くさないと、目の前にあるXが量子系であるかどうかを厳密に述べられない「量子系の定義」というものは、実証科学として全くの無意味だと思います。一方私の教科書では、ボルン則や量子重ね合わせを自然な条件から実際導いております。対象Xが上で述べた条件を実験で満たしていることが分かれば、自動的に導かれることだからです。

 

前世紀からの「量子論観測問題」を無意味に延命させて、問題を混乱させるだけの主張をされる方もいるので、その著書を読まれる場合には、注意が必要かと思われます。

量子力学に「観測問題」は存在しない|Masahiro Hotta (note.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

『入門 現代の量子力学 -量子情報・量子測定を中心として-』

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講談社サイエンティフィクから拙書『入門 現代の量子力学 -量子情報・量子測定を中心として-』が出版されました。目次は下記のようになっております。

【目次】
第1章 隠れた変数の理論と量子力学
第2章 二準位系の量子力学
第3章 多準位系の量子力学
第4章 合成系の量子状態
第5章 物理量の相関と量子もつれ
第6章 量子操作および時間発展
第7章 量子測定
第8章 一次元空間の粒子の量子力学
第9章 量子調和振動子
第10章 磁場中の荷電粒子
第11章 粒子の量子的挙動
第12章 空間回転と角運動量演算子
第13章 三次元球対称ポテンシャル問題
第14章 量子情報物理学
第15章 なぜ自然は「量子力学」を選んだのだろうか
付録

大変ご好評を頂いているようで、著者としては有難いかぎりです。なおいくつか誤植や脱字が見つかりました。以下に2021年7月31日現在の正誤表を張らせて頂きます。(ご報告頂きました皆様、感謝申し上げます。)

f:id:MHotta:20210731095712j:plain

 拡大するには、正誤表上でクリックをしてください。この教科書はtwitter上での物理学アウトリーチから発展して、出版されたものです。この意味で、ネットで繋がった多くの方々のご協力のもとに生まれてきた教科書であるとも言えます。もし皆様のご協力で誤字脱字等がまた見つかりましたら、ご連絡頂けますと大変有難く存じます。正誤表は随時更新して参ります。また運よく、この教科書の刷りが増すときには、その段階で原稿に取り込める誤字脱字の修正や、より分かりやすい表現への変更なども行いたいと思います。この生まれたばかりの教科書を皆さまとともに育成させて頂ければと願っております。よろしくお願い申し上げます。

 

追記(2021/8/2):新たな下記の誤植が見つかりました。

f:id:MHotta:20210802163933j:plain

 

 

 P137脚注97 (2021/8/19追記)

「露箱」→「霧箱

P182 (12.20)式

f:id:MHotta:20210819140212p:plain

追記: 2021年9月14日誤植訂正追加分

f:id:MHotta:20210914074727p:plain

f:id:MHotta:20210914074831p:plain

追記(2021/9/20):

P134 下から5行目

「大きな正実数として」→「大きな正整数として」

P151 上から9行目

「するそれぞれの調和振動子の」→「それぞれの調和振動子の」

P191下から6行目

「非負の正数値の」→「非負の整数値の」

追記(2021/9/22):

P269下から6行目の積分の範囲を修正。

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追記(2021/10/7):

P42 第3章4.3節脚注38

f:id:MHotta:20211007053923p:plain

 

追記(2021/11/1):

P75 下から3行目 「対数ネガティビテイ」→「対数ネガティビティ」

 

追記(2021/11/5):

P171 (11.35)式右辺

f:id:MHotta:20211105032440p:plain

P196(12.83)式から下に2行目

f:id:MHotta:20211105101557p:plain

追記(2021/11/7):P32上から14行目

f:id:MHotta:20211107135542p:plain

P32上から15行目

f:id:MHotta:20211107140042p:plain



追記(2021/12/22):P153 (10.11)式

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補足:紙面が限られているため、保存量の超選択則がある場合は割愛されていますが、第3章の物理量測定の話は、様々な超選択則がある合成量子系の場合でも、合成系に対してその全保存数量の値が共通している状態ベクトルが張る状態空間を考えれば、同じように適用できます。この状態空間に作用する任意のエルミート行列は、第3章3.3節の方法で観測可能な物理量に対応します。

 

追記(2022/1/5)

P251(C5)式

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追記(2022/1/22)

P90上から4行目

f:id:MHotta:20220122182541p:plain

P90 (6.37)式

f:id:MHotta:20220122184946p:plain

P114(7.43)式

f:id:MHotta:20220122182708p:plainP114(7.44)式

f:id:MHotta:20220122182805p:plain

追記(2022/1/23)

P112 上から12行目

f:id:MHotta:20220123134936p:plain

追記(2022/1/24)

P118 (8.9)式

f:id:MHotta:20220124163108p:plainP118 (8.10)式

f:id:MHotta:20220124163208p:plain

P119 (8.11)式

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追記(2022/1/28)

P136 上から7行目

f:id:MHotta:20220128181151p:plainP136 下から10行目

f:id:MHotta:20220128181250p:plain

 

追記(2022/5/1)

P157 上から9行目

追記(2022/6/24)

P170 上から5行目

追記(2022/7/1)

P176 問3解答

(B65)式→(11.53)式、(B52)式→(11.54)式、(B53)式→(11.55)式

 

追記(2022/7/8)

P187 上から5行目

(12.43)式の上1行目

「(12.35)式のベクトルと直交する」→「(12.42)式のベクトルと直交する」

 

追記(2022/7/13)

P203 上から7行目

 

追記(2022/7/20)

P261 (F.12)式と P262 (F.13)式

追記(2022/7/24)

P247 上から2行目

「同様にi列目の余因子展開を考えれば」→「同様にi行目の余因子展開を考えれば」

 

追記(2022/8/12)

 

P80 上から6行目

「で与えらえる」→「で与えられる」

 

電子版 第1章1.2.1 上から3行目

 

追記(2022/8/13)

 

第3章に関する補足を下記に書きました。

 

『入門現代の量子力学』補足 - Quantum Universe (hatenablog.com)



 

追記(2022/9/23)

P180 (12.13)式

 

P181 (12.15)式

 

追記(2022/9/29)

P115 上から9行目

「これと(7.50)式を(7.49)式の右辺に使えば、(7.29)式が得られる。」

この導出の説明は間違いで、(7.27)式の導出と同様の方法でAの誤差とBの誤差についての三角不等式を適用することで導かれます。なおお詳しい導出はEMANさんの参考書『堀田量子ガイド』(堀田量子ガイド|EMAN|note)の『小澤不等式の導出』(小澤不等式の導出|EMAN|note)に出ています。

 

追記(2022/12/1)

P143 下から3行目

追記(2022/12/3)

P156 註105

追記(2022/12/9)

P157 (10.26)式とP158 '(10.28)式



アインシュタインのタイポ

 今回の英国出張で最後の訪問地はノッティンガム大学。セミナーを行うために、友人のヨルマ・ルーコさんとシルケ・ワインファートナーさんの研究室へ。

 

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そのときにヨルマさんが見学させてくれたのが、1930年6月6日に英国のドイツ協会が開催した講演会でアルバート・アインシュタインがドイツ語で書いたこの板書。一般人向けだったらしく、数式も少ないものになっている。

 

ただ面白いのは、デカルトの名前のスペルが間違っている部分。

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デカルトはDescartesと書くが、「c」が「k」になっている。例え保存される板書でも、アインシュタインはタイポなんか気にしなかったのだろう。彼らしいエピソードだ。

 シルケさんの実験室の見学もさせて頂いた。そこでは流体を使った曲がった時空の物性アナロジーを研究している。実は彼女のこの研究は、米国の人気ドラマ「The Big Ban Theory」にも登場しているのだ。

 

www.youtube.com

 

この主人公の1人がこの動画で一生懸命解説している内容が、まさに彼女の研究なのだ。この番組制作者は、物理学研究の動向を調べてこの場面を作ったようだ。

 

 彼女の実験室には「ブラックホール実験室(Black Hole Laboratory)」という看板が、レーザー実験の危険注意喚起の「Warning」という警告と一緒にドアに貼られている。

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このため、物理を知らない学生さん達が本物のミニブラックホールを作っている危ない研究室と想像して、恐る恐る実験室内部を窓から覗こうとしていることが良くあるそうだ。万が一にもブラックホールに吞み込まれたくないが、好奇心で見てみたいという、初々しい葛藤がある学生さんなのだろう。

 

実際は水流などを用いて回転するブラックホール時空上の速度場分布をレーザーで測定する実験を行っている。

 

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回転するブラックホールには事象の地平面の外側にエルゴ球という変わった空間を持っている。回転が時空を強く引き摺るために、あらゆるものは外部に対して静止できない。この領域の性質を使うと、ペンローズ過程のように分裂する物体をブラックホールに落とすことで、エネルギーを取り出すこともできる。

 

ここの研究室では、事象の地平面とブラックホールからエネルギーをもらって増幅が起きるスーパーラディアンス(super radiance)の関係性を、多様な視点から探求しているのだ。

 

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この写真は、回転しているブラックホールモデルに平面波が入射するときのデータ。実際の実験では流体のダストなどの管理にもえらく神経を使うとか、沢山の苦労話もお聞きした。滞在中は、いろいろ知的な刺激を受けたノッティンガム訪問だった。

 

 

 

ニュートン、マクスウェル、ホーキング

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いまイギリスに来ている。9日間という短い期間に、ロンドン、ケンブリッジノッティンガムを回る強行軍の出張だ。

 

 最初のロンドンでは、ここの学術査読雑誌のEditorial Boardをしている関係で英国王立協会を訪問。ここはイギリスの科学の長い歴史が詰まっている場所でもある。

 

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アイザック・ニュートンもかつてここの協会長をしていた。1703年から1727年の間勤めていたらしい。いろいろある貴重な資料の中から選ばせて頂いて、まずはニュートンの有名な『プリンキピア』の手書き原稿を見せてもらうことにした。

 

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保存のために1枚1枚綺麗に現代の用紙に貼られてファイルされていた。

揮発性洗剤を含んだ備え付けのテイッシュで念入りに手を拭いた後、さっそく1枚1枚めくっていくと、推敲の跡が見てとれた。

 

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次にはマクスウェルの『電気磁気論』初版本(1873年)を見せてもらうことにした。彼は現代物理学の基礎の1つである電磁気学マクスウェル方程式でも有名な理論家だ。この方程式から電磁波の存在も予言した。

 

 

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そしてこれがその序文のページだ。

 

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これが目次のページになっている。

 

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内容は非常に基礎的なところから丁寧に書かれている。下のページでは物理量の測定から論じている。

 

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彼は熱力学でも重要な仕事をしている人だ。最近の情報熱力学でもホットなテーマである『マクスウェルの悪魔』も彼の思考実験から生まれたものだ。

1871年には有名な教科書『熱理論』を出している。その初版本も見せてもらった。

 

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下のページでは温度計の構成の仕方を論じている。

 

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イギリスが長い歴史の中で成してきた物理学への貢献をこうして実際に手にしてみるのは貴重な体験だった。

 

その日の午後はロンドンの町中にあるUniversity College London(UCL)の物理学科で量子エネルギーテレポーテーション(QET)のセミナーをさせて頂いた。ホストは友人のジョナサン・オッペンハイムさんで、彼には量子情報熱力学の沢山の論文がある。

QETは複数のマクスウェルの悪魔が低い温度の熱平衡状態を使って行える新しいツールになっているが、熱的QETの一般的理解を与える情報熱力学の第2法則の拡張は未だ完成されていない。UCLからまたなんらかの発展が出てくればうれしい。

 

ちなみにUCLは、イギリスの長い歴史ではまだ若い大学とされる。例え創立が1826年だとしても。

しかしその開学理念が実に素晴らしい。UCLができる前までケンブリッジ大やオックスフォード大は非常に保守的で、入学できるのは男性、貴族出身、英国教徒という条件を兼ね備えた人に厳しく限定していた。

それに反旗を翻したのが、「最大多数の最大幸福」というスローガンでも有名な哲学者ジェレミ・ベンサム

 

彼はUCLの創立者の1人となって、その入学条件に対して、性別、政治、思想、宗教などのあらゆる差別を撤廃したのだ。

 

UCLの無宗教性のおかげで、オックスフォード大学とケンブリッジ大学では断られたチャールズ・ダーウィンの『進化論』の発表も、ここではできたのだそうだ。リベラルな大学の源流と言えよう。

 

ベンサムは遺言を書き、自分の死後肉体を保存させて大学の玄関ホールに置かせた。それがこの「自己標本」だ。今回もセミナーでの訪問に際して、UCLの守り神として玄関でお出迎えして頂いた。

 

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この箱には下記のような解説文が付いている。

 

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ウィキペディアからの引用

"死後ベンサムの遺体は、彼が遺言書で要求した通り、保存され、服を着て杖を持ち椅子に座った状態でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで木製の棚に保管された。これは"オート・アイコン"(自己標本)と呼ばれる[12]。それは公的な行事の際、倉庫から時折持ち出された。保存の過程で頭部は深刻な損傷を受けたので、頭部だけは蝋でできたレプリカである。本物の頭部も同じ棚に長年展示されていたが、たびたび学生のいたずらの標的にされ、事あるごとに盗まれたので、現在では別室に厳重に保管されている。"

ジェレミ・ベンサム - Wikipedia

 

UCLではセミナーも沢山の物性理論の人達や実験家も参加してくれて盛況だった。その前後の物理学の議論もQETだけでなく、量子情報熱力学のより一般的な熱状態の受動性の話やブラックホールファイアウォールの議論へと広がり、とても楽しい時間を過ごせた。

 ロンドンの後は、ケンブリッジに鉄道で移動。ケンブリッジ大のDAMTP(Department of Applied Mathematics and Theoretical Physics)の一般相対論グループでセミナーをさせて頂いた。内容はブラックホールの事象の地平線上の漸近対称性の最近の結果についてである。写真はDAMTPが入っている建物であり、近代的な作りになっている。

 

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中に入ると、ここのシンボルであるスティーブン・ホーキングさんの絵画や像が飾られていた。

 

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セミナーは13時から始まる。聴衆がピザなどの簡単な昼食をとりながら聞けるランチミーティング形式だ。

 

会場に入ると、一番前の座席部分が空けられて、紙が置かれていた。

 

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その紙には、次のように書かれていた。

 

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そしてセミナー開始時間直前、彼はやってきた。

 

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彼に研究発表をゆっくり聞いてもらえるのはこれが初めてだ。しかも講演内容は、彼が共同研究者のペリーさん(同じDAMTP)とストロミンジャーさん(ハーバード大)とともに昨年書いた論文に対して、ネガティブな結果も含めてある。。

これがどう彼らを刺激するかは未知数だった。彼らは現在コンピート中の競争相手でもあるのだ。

 いつもより幾分緊張しつつだったが、話し出すとそれもどこかに消えていた。内容には自信があり、しかも楽しい物理が入っていると確信しているからだ。

 

だがトークの中盤に突如ホーキングさんが例の「あの声」で"Happy Xmas"とつぶやいてきたので、こちらは不覚にも動揺してしまった。

 

話していた部分には、もちろんクリスマスは出てこない。既に彼らの結果に対しての批判的コメントの部分は過ぎていたので、もしかしたら不満をもってからかい半分に発言したのかなとも思ってしまった。(しかし、後でわかるようにこれは全くの誤解だった。)

 

このグループのセミナーは彼が出席すると他の参加者の誰もが発言を控えてしまうのか(特に今回はそこの2人の教授の仕事に対するカウンターでもあるし、ケンブリッジ大はかなり保守的と多くの友人から聞いていた)、または彼が更なる発言するのを耳を澄ませて待っているのか、ともかく変な短い沈黙があった。

 

ただ彼の隣で付き添っている介護専門のスタッフの方が大丈夫だから続けてくださいと言っているし、また彼に発言意図をこちらから聞いてもその返事を機械に打ち込むのに10分以上は必ずかかると踏んで、後でゆっくりお聞かせくださいとだけ言って、先を進めることにした。

 

結局彼は特に発言することはなく、講演は時間通りきちんと終わった。

その後若い人が駆け寄ってきて、あの"Happy Xmas"の事情を解説してくれたのだ。

彼は気管切開をした後彼自身の声を失っており、車椅子に備えているインテル社の開発した機械を使って言葉を話している。最初は彼の眉の動きをモニターしてコンピュータ画面上の単語リストから自分の使いたいものを拾ってきて文章を書き、それを音声に直してきた。その後は手のかすかな動きで言葉を入力できる装置に切り替えた。

 

だが最近は症状の進行とともに高齢で体力も落ちてしまい、それまでのコミュニケーション方法ができなくなったらしい。

 

そこでインテル社は頬の運動を捉えるモニターを開発し、再び彼に言葉を与えることに成功したのだ。(これだけでも、彼と周囲の方々の苦労が偲ばれる。)

 

ただ頬方式には難点がある。それは食事中に起こる。食べ物を口に入れて咀嚼するときに、頬も連動してしまう。そして今回は「ランチ」ミーティングだった。彼も介護の方に手伝ってもらってスプーンでオートミールのようなものを口に入れてもらっていた。

するとしゃべりたい意思がなくても頬が動き、それがしばしばエラーを起こして、彼の体の不調を伝える非常時キーワードである"Happy Xmas"を、機械が勝手に発声してしまうのだそうだ。

 

今回もまさにそれだったらしい。このグループのランチセミナーでは定番の風景だったそうだ。最初から知っていれば、こちらもドキリともしなかったのだが。

 

ただ非常時を知らせるキーワードが"Happy Xmas"であるというのを聞いて、やっぱり彼らしいなと感じた。 

彼の体にまだ自由が残っていて、研究者として最も脂がのっていた1971年にイギリス出身のジョン・レノンが出した有名な曲が"Happy Xmas"だからだ。

 

この曲には"War Is Over"という副題が付いており、スタイリッシュに反戦を訴えるものでもある。"WAR IS OVER! IF YOU WANT IT"というフレーズのコーラスが素晴らしい曲だ。

反戦家である彼も、この曲を聴きながら研究していた時期があるのもしれない。それでこの曲名を使っているのかもしれない。(この件は直接彼に尋ねていないので、想像である。)

 

 

 

 

その後興味を持ってくれた人の質問に答えたりした後、彼の部屋に伺った。ペリーさんとその学生さんも一緒だ。彼らは彼との意思疎通に慣れているので、心強かった。セミナー中には彼は質問を機械に打ち込むのにも集中力と時間がかかるため、お部屋に伺って改めて質疑応答という運びになったのだ。

 

彼はまず私がまだ知らないであろう、彼の共同研究者のその若い学生さんを機械に名前を打ち込んで紹介してくれた。

そして自分の講演に関する質問をくれたのだ。これも打ち込みにすごい時間がかかる。

隣に座らせて頂いて、文章が綴られていくコンピュータ画面の上をずっと観察していた。

彼は頬を動かして、画面上の辞書リストからアルファベットと使用頻度順に並べられている単語を探してきて、確定する。

 

これを繰り返して文章を延ばしていくのだが、みていると画面上のカーソルは彼が思うようには動いていないようだ。

 

なんども違う単語を拾ってしまい、それを消去しては、また頬を動かして自分が使いたい単語を取り出そうとしていた。

 

たった1行の文章でも、彼のこのような不屈の努力で綴られているのだ。

 

やはり彼は強い人だった。心動くものがあった。

 

その後ペリーさんや学生さんを含めて黒板を使って議論して、楽しい時間を過ごした。

(もちろん彼は基本的に聞いているだけになってしまったが、内容はきちんと理解しているようだった。)

 

彼の部屋にきて1時間半くらい経ってしまい、さすがに彼に疲れの色が見えた。

介護スタッフの方が彼に確認して、後はメールでということに。

自分は学生さんとカフェテリアで議論を続けた後、DAMTPを後にした。

 

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スティーブン・ホーキングさん。現代のイギリスの物理学者で一般人にも最も著名な方である。しかし自分はそれよりも、彼のとても強い精神力に心魅かれたのだった。

 

さて明日は友人でもあるノッティンガム大のヨルマ・ルーコさんのところでセミナーをする。ケンブリッジ大と同じ内容だ。また懐かしい人達と物理の議論を存分に楽しんできたい。

エントロピック重力理論

最近、オランダのエリック・フェアリンデさんが提案したエントロピック重力理論が世間で注目を集めている。これはオランダの観測グループが銀河による弱い重力レンズの効果を使って彼の理論の検証を行い、データと整合したという論文を出したからだ。

フェアリンデさんは、長距離では重力の強さが変化して、みかけ上暗黒物質ダークマター)があるように振る舞うという主張をしていたため、観測と矛盾しないという観測結果からダークマターは実は不要だったとか、エントロピック重力理論は正しかったとかと、断定的に受け止めた方も多いようだ。

 

しかしこの彼の"理論"は、完成した理論ではない。根拠の確立していない多数の仮説を沢山組み合わせて、観測と比べられる量を同定しているだけで、精密な定式化がなされているわけではないのだ。論理的にダークマターが存在しないことを示したものでもない。

 

論文では、量子もつれエンタングルメントエントロピーの重要性を強調しているが、直観的な議論だけだとも言える。例えて言うなら、20世紀の量子力学の発展における前期量子論的位置づけになろうかと思う。

 

だからエントロピック重力理論の正しさが観測で確認されて、ダークマターが無かったと主張するのは、とんでもない誤解である。観測グループの論文自体にもそのような強い主張はなく、とりあえず彼の理論は1つの観測とは整合して、「最初の試験」にはパスしたと書かれているに過ぎない。それでも刺激的な内容であることには間違いない。

 

以下では、すこしエントロピック重力理論の解説をしておこう。

 

通常の超弦理論や一般相対論では、重力は電磁気力や弱い力、強い力と同様に、もっとも基本的な相互作用の1つと考えられてきた。つまり素粒子や弦など、物質の根源的な単位のレベルでもその力は働く。

 

しかしフェアリンデさんの理論では、重力はそのような力ではないと考える。時空を生み出す源のミクロな自由度が沢山集まり、有限温度の熱平衡を作るときに出てくる派生的な力とみなすのだ。このような現象はポリマーやゴムなどの物性系によく現れることが知られている。

 

 図1のように長い1本のポリマーが箱の中で温度Tの熱平衡状態になっているとしよう。このポリマーは様々な形をとることができ、バタバタとランダムに揺らいでいる。絡まってできるポリマーの毛玉の全体の大きさは、紐の絡まる形の多様さの数がもっとも大きくなるように決まってくる。

 

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その平衡点からポリマーの先端を引き延ばすと、距離に比例して縮もうとするフックの力が生じる。そしてそのばね係数は温度に比例するのだ。だからゼロ温度では、この力は消滅する。

統計力学的効果で2次的に発生するこのような力は、エントロピー力と呼ばれている。

フェアリンデさんは重力もこのようなエントロピー力だと主張をしているのだ。

彼はまず、真空中を加速度運動する物体が量子場の効果で加速度に比例する温度の熱浴を観測する現象、つまり「ウンルー効果」から、重力を計算する"原理"を読み取る。

(ウンルー効果については下記を参照。

mhotta.hatenablog.com

 

ここで話の面白さを明確にするため、ニュートンの逆2乗則を仮定せず、距離に関してどのような強さの重力Fがかかっているかを、知らないとしよう。

 

図2のように、半径rの地点にある質量mの小物体を考える。放っておけば質量Mの大きな物体による重力Fによって落ちてしまうが、それと釣り合うように逆方向の外力(ーF)を加えて、その地点に留めることにする。

もしこの外力がなければ小物体は自由落下するが、この小物体の固有慣性系では重力は等価原理により消去されている。しかしいま一定の外力である-Fがかかっているため、この慣性系では小物体は一様加速度運動をしていることになる。

このため、その加速度aに比例する温度Tのウンルー熱浴を感じていることだろう。つまり外力のおかげで半径rの位置に小物体が静止している場合には、その小物体は温度Tの熱浴に浸されていることになる。

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ここで、ボルツマン定数プランク定数ℏや光速度cを用いて、ウンルー輻射の温度Tと加速度aの大きさ(絶対値)には(1)式の関係があることが知られている。

 

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ここでフェアリンデさんは彼なりのホログラフィ―原理を仮定する。質量Mの物体は、半径rの球の体積中に広がっており、(2)式のエネルギーを持っている。一方同じ状況で、半径rの地点の静止する小物体にとっては、このエネルギーが球面上に存在する温度Tの量子重力のミクロな自由度がもつ通常の熱エネルギー((3)式)に見えるとするのだ。3次元の体積エネルギーを、2次元の熱的な表面エネルギーと見るため、「ホログラフィ的」と言える考え方だ。

 

通常のホログラフィ原理では囲む面積Aに比例する自由度が存在すると考えるので、それを尊重して、彼は重力定数Gを用いてその自由度の数Nを(4)式で与えた。これは通常のベッケンシュタイン-ホーキングエントロピーと同じオーダーだが、ただし1/4の因子だけずれている。この因子の欠落についてフェアリンデさんは合理的な説明を与えていないが、本質的ではないと思っているのかもしれない。

(1)式から(4)式までを組み合わすと、簡単に加速度aの絶対値が(5)式のように得られる。これは大変興味深いことで、質量mを(5)式の両辺にかけて、引力であることを仮定すれば、(6)式のように逆2乗則に従う普通の重力Fが再現されるのだ。つまり従来のニュートンの重力の法則が、ホログラフィックな考え方から発見論的に導出することができたのである。このFは温度Tの熱浴が生み出したエントロピー力であり、それが結果として重力とみなせるとするのが、フェアリンデさんの基本的なアイデアである。

 

上の結果は非相対論的な場合だが、彼の論文(https://arxiv.org/abs/1001.0785)ではアインシュタイン方程式もこのような考え方から導けると主張もしている。しかしそれは言い過ぎだと多くの研究者は思っている。

彼は時空の曲がりを記述する計量の自由度を最初から導入してしまっており、それを使ってブラックホールの熱力学からアインシュタイン方程式を導いたテッド・ヤコブソンさんの解析の真似をしたに過ぎない。

本当に弾性体的描像から一般座標変換のもとで対称なアインシュタイン方程式をきちんと導いたと主張するためには、その計量の自由度を元の弾性体の自由度から書き下し、一般座標変換不変性も導く必要があるのだが、彼はそれをしていないからだ。

その意味で、エントロピック重力理論がアインシュタイン方程式を導くというのは、今の段階では正しくない。さらに方程式への補正項も与えられていないのだ。これができていないため、昨年LIGOで観測された重力波のデータとフェアリンデさんの理論が整合するかどうもも比べようがないのが現状である。

 

オランダの観測グループが書いた論文(https://arxiv.org/abs/1612.03034)での理論のチェックも、たかだか1σの誤差の大きい範囲でなされたに過ぎない。確実なことを言うには、まだまだデータが足らない。また通常のダークマター理論でも、もちろんこの観測データを説明できることはこの論文内でも触れられている。

 

ただそれでも面白い点を挙げれば、フェアリンデさんの理論の予言には決められないパラメータが全く入っていない確定的なものなのに、観測とは整合したという部分だ。ダークマター理論のほうでは、同じ観測量にハロー中のダークマターの未知の質量が入ってしまい、それをパラメータとして扱って最適化をする必要がある。これは、論文でも強調しているエントロピック重力理論の「売り」の点である。ただこれを検証して確実な答えを得るには、まずは観測と理論の進展が望まれる。

 

ともかくホログラフィー原理に基づいたある1つの理論が初めて観測と比べられた事実は、大変評価されるべきことだ。今後も、量子エンタングルメントなどの量子情報的視点は「重力とは何か?」という問いに対して深い知見を我々に与えてくれることであろう。

 

 

量子論で、自分の脳を自分で観測するということ。

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コペンハーゲン解釈では、測定者と測定対象の量子系を「合理的に」分離できたときに初めて、量子力学は使える形で定式化されていると、これまで説明してきた。

(下記まとめを参照。http://togetter.com/li/758266

 

例えば図1は1つの量子的なスピン系を外部観測者が測定をする設定であるが、これは合理的分離が実現している典型例である。

 

しかし自分の脳を、いろいろな機器を用いて「自分自身で」モニターする場合は、この合理的分離に当てはまるのかという質問も出ることがある。

例えば、自分の脳の量子的状態重ね合わせを、脳からの信号を取り出しながら、自分自身で観測できるのかという問題だ。

答えから言うと、自分の脳の量子的重ね合わせ状態は自分では観測できない。

もし可能であれば、時々刻々1つの体験だけを感じている自分の意識と、量子的重ね合わせに含まれている他の体験との間で辻褄が合わなくなるためだ。

自分自身は1つの体験の記憶しかないのに、自分の脳のモニター上にはある確率で実現していない他の体験の結果が現れてしまう。観測されたその脳には、他の記憶が刻まれている。これは明らかな矛盾である。

量子力学で自分の脳を連続的にモニターしても、それは図2のように全く古典力学的振る舞いをするマクロな対象として認識されるだけである。

 そのデータから読み取れる情報は、自分の意識が各時刻に経験した唯一つの事実と全て整合してしまう。

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ただ、ある種の人間に対しては脳の量子的重ね合わせのために記憶や意識が不安定となり、2つ以上の異なる体験を同時にしているという主張もあり得るだろうが、その真偽を定める方法は科学の範疇の中に存在しない。

再現可能性がある健全な科学としての認識論的な量子力学においては、安定した意識と記憶をもつ観測者がいることが大前提である。

その場合だけ量子力学は高い能力を発揮するが、そうではないケースに対しては、量子力学は単に無力になるだけだ。

 

ただ、図2の脳の極一部分を構成している1つの電子などは、量子力学的対象として自分自身でもモニターできる。

マクロな脳の活動の自由度に対してだけ、古典力学的振る舞いが確立していればいいので、それとは関係のない脳のミクロな系の量子的振る舞いは、自分でも観測できるであろう。

また図3のように、事故や手術により右脳と左脳の間の接続を切られてしまったときでも、それぞれの脳に独立な意識が芽生えることもあり得る。

この場合には、様々な外部モニターを用いれば、一方の脳が他方の脳の量子的重ね合わせ状態を観測できる可能性も原理的レベルではある。(ただ飽くまで、原理的思考実験レベルであり、実際の実験はほとんど不可能である。)

 

f:id:MHotta:20160228130050j:plainこのように認識論的なコペンハーゲン解釈では、設定や環境をきちんと指定することによって、自分の脳を自分でモニターするときに量子性を観測できるかについて、具体的な答えを与えることは可能である。

一方、実在としての宇宙の波動関数しかない多世界解釈では、状況は違う。

その解釈論の中では、自分で自分の脳を観測するこの問いに答えるためにも、意識の創発自体を導く必要があるが、これは反証可能な科学的な問題になっていない。

(このあたりは下記ブログ記事を参照。

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2015/02/04/074443

多世界解釈では波動関数の収縮という概念がないため、状態も線形的に時間発展するのみだ。

このため、1つの体験を選択するという射影測定などの非線形的現象は説明できていない。

従って図4のように、多世界解釈では、自分自身で自分の脳の重ね合わせ状態を観測できるかについて答えようがないのである。

 

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【量子とドクターY】 (出会い編)

その頃、病理医のY氏は、多忙をきわめていた。

いつもの業務に加えて、新しい研究を立ち上げ、それをもとに論文を書くつもりであった。

その日も、実験に協力してくれるアルバイトに集まってもらい、あるテーマに沿ったデータを彼らから収集するはずだった。

身長、体重、そして血圧の高いほうの値だけを調べれば、今回の研究で知りたいことは十分な精度で確定する。

そこでY氏は、この3つの数値を体の状態と呼ぶことにし、順番に測ることにした。

 

その集まってくれたバイトの中に、あの不可解な彼女、量子が、混じっていたわけだ。

 

その外見はまるでモヤのかたまりのようでもあり、目を凝らしても蜃気楼のように揺らいで姿が良く見えない。

彼は量子を測定室に招き入れると、身長、体重、血圧をそれぞれの装置で測ろうとした。

どこが頭部の頂きかも分からなかったが、身長計に載せるとパッと頭が現れた。

身長計は180cmを示している。

それを自分のノートに記入して、彼女を身長計から降りさせると、得体のしれない笑みとともに、量子の頭部はふたたびモヤの中に消えさってしまった。

 

「なんだコイツは。」と、腹のなかでおもいつつも、体重計の上に乗ってもらうと、グラグラと異様に揺れていたその目盛りは、突然凍ったように65kgのところでピタリと止まった。

 

Y氏はそれを書き留めると、体重計から量子に降りてもらうのを忘れたまま、量子の腕「らしき」ところへと血圧計を当てようとした。

その瞬間だった。

体重計の針が狂ったように左右に振れ出し、しまいには針がはずれて壊れるのではないというぐらいの異音を発した。

 

驚いたY氏は、血圧計を付けないまま、おもわず後ずさった。

 

すると量子が乗っている体重計の針は、またピタっと止まった。

 

何かいけないことをしたかのような不思議な罪悪感が、Y氏には涌いた。

 

が、気を取り直して、量子に体重計から降りてもらい、再び血圧計を腕らしく思える部分に取り付けると、上の血圧は120だった。

それをノートに書き留めると、Y氏は何か落ち着かなくなり、もう一度身長を測ってみようという気になった。

 

再度身長に乗った量子。そのモヤから現れた頭部は明らかに前よりずっと下に現れた。

 

身長160cm。

さっきは180だったはずだ。

(おかしい。)

量子の意向など構いもせず、Y氏は何回も身長、体重、血圧を繰り返し測り続けた。

機械は壊れていないはずなのに、その数値はどれも全く違うでたらめな値を出してくる。

 

「いや、部分的には法則性がある。」 Y氏は気づいた。

 

身長、体重、血圧のうち、同じ量を連続で測ると必ずその直前の値に一致していた。

身長が176cmだったら、直後に身長を測りなおしても、必ず176cmだった。

身長は確定した値を持っているように見えた。

 

しかし体重か、血圧をその後に測ってから、再度身長を測ると今度は別な数値が出てくる。

何回繰り返してもいいのだが、連続した測定の場合だけ、値が1つに固定されるのだ。

 

これと同じ法則性は、体重測定、血圧測定の場合でも、確認された。

Y氏は驚嘆し、思わず声に出してしまった。「こいつは何者だ。」

 

猛烈な好奇心に駆られ、Y氏は予定していた研究テーマを捨て、量子の不思議な挙動を調べることを決心した。

量子以外のバイトを全員返して、しばらく黙り込んでY氏は考え抜き、まずは量子の体の「状態」の特徴付けをしなくては、と思った。

 

量子の状態は、決まった身長、体重、血圧を同時にとることはない。

仕方なく、この奇妙な事実は、受け入れることにした。

 

そして「身長を測ったときに180cmになる状態」とか「体重を測ったときに77kgになる状態」とか、「上の血圧を測ったときに129になる状態」とかと、長ったらしいが、測定状況を細かく指定することで、量子の「状態」とすることにした。

 

問題は「身長を測ったときに180cmになる状態」と、「体重を測ったときに77kgになる状態」とかの関係だ。

 

Y氏は、回転の速いその頭で、延々といろいろな可能性を考え抜くのであった。

(続く)