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Quantum Universe

量子情報物理学を中心とした話題で、気が向いたときに更新。ツイッター: https://twitter.com/hottaqu

アインシュタインのタイポ

 今回の英国出張で最後の訪問地はノッティンガム大学。セミナーを行うために、友人のヨルマ・ルーコさんとシルケ・ワインファートナーさんの研究室へ。

 

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そのときにヨルマさんが見学させてくれたのが、1930年6月6日に英国のドイツ協会が開催した講演会でアルバート・アインシュタインがドイツ語で書いたこの板書。一般人向けだったらしく、数式も少ないものになっている。

 

ただ面白いのは、デカルトの名前のスペルが間違っている部分。

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デカルトはDescartesと書くが、「c」が「k」になっている。例え保存される板書でも、アインシュタインはタイポなんか気にしなかったのだろう。彼らしいエピソードだ。

 シルケさんの実験室の見学もさせて頂いた。そこでは流体を使った曲がった時空の物性アナロジーを研究している。実は彼女のこの研究は、米国の人気ドラマ「The Big Ban Theory」にも登場しているのだ。

 

www.youtube.com

 

この主人公の1人がこの動画で一生懸命解説している内容が、まさに彼女の研究なのだ。この番組制作者は、物理学研究の動向を調べてこの場面を作ったようだ。

 

 彼女の実験室には「ブラックホール実験室(Black Hole Laboratory)」という看板が、レーザー実験の危険注意喚起の「Warning」という警告と一緒にドアに貼られている。

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このため、物理を知らない学生さん達が本物のミニブラックホールを作っている危ない研究室と想像して、恐る恐る実験室内部を窓から覗こうとしていることが良くあるそうだ。万が一にもブラックホールに吞み込まれたくないが、好奇心で見てみたいという、初々しい葛藤がある学生さんなのだろう。

 

実際は水流などを用いて回転するブラックホール時空上の速度場分布をレーザーで測定する実験を行っている。

 

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回転するブラックホールには事象の地平面の外側にエルゴ球という変わった空間を持っている。回転が時空を強く引き摺るために、あらゆるものは外部に対して静止できない。この領域の性質を使うと、ペンローズ過程のように分裂する物体をブラックホールに落とすことで、エネルギーを取り出すこともできる。

 

ここの研究室では、事象の地平面とブラックホールからエネルギーをもらって増幅が起きるスーパーラディアンス(super radiance)の関係性を、多様な視点から探求しているのだ。

 

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この写真は、回転しているブラックホールモデルに平面波が入射するときのデータ。実際の実験では流体のダストなどの管理にもえらく神経を使うとか、沢山の苦労話もお聞きした。滞在中は、いろいろ知的な刺激を受けたノッティンガム訪問だった。

 

 

 

ニュートン、マクスウェル、ホーキング

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いまイギリスに来ている。9日間という短い期間に、ロンドン、ケンブリッジノッティンガムを回る強行軍の出張だ。

 

 最初のロンドンでは、ここの学術査読雑誌のEditorial Boardをしている関係で英国王立協会を訪問。ここはイギリスの科学の長い歴史が詰まっている場所でもある。

 

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アイザック・ニュートンもかつてここの協会長をしていた。1703年から1727年の間勤めていたらしい。いろいろある貴重な資料の中から選ばせて頂いて、まずはニュートンの有名な『プリンキピア』の手書き原稿を見せてもらうことにした。

 

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保存のために1枚1枚綺麗に現代の用紙に貼られてファイルされていた。

揮発性洗剤を含んだ備え付けのテイッシュで念入りに手を拭いた後、さっそく1枚1枚めくっていくと、ニュートンの推敲の跡が見てとれた。

 

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次にはマクスウェルの『電気磁気論』初版本(1873年)を見せてもらうことにした。彼は現代物理学の基礎の1つである電磁気学マクスウェル方程式でも有名な理論家だ。この方程式から電磁波の存在も予言した。

 

 

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そしてこれがその序文のページだ。

 

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これが目次のページになっている。

 

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内容は非常に基礎的なところから丁寧に書かれている。下のページでは物理量の測定から論じている。

 

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彼は熱力学でも重要な仕事をしている人だ。最近の情報熱力学でもホットなテーマである『マクスウェルの悪魔』も彼の思考実験から生まれたものだ。

1871年には有名な教科書『熱理論』を出している。その初版本も見せてもらった。

 

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下のページでは温度計の構成の仕方を論じている。

 

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イギリスが長い歴史の中で成してきた物理学への貢献をこうして実際に手にしてみるのは貴重な体験だった。

 

その日の午後はロンドンの町中にあるUniversity College London(UCL)の物理学科で量子エネルギーテレポーテーション(QET)のセミナーをさせて頂いた。ホストは友人のジョナサン・オッペンハイムさんで、彼には量子情報熱力学の沢山の論文がある。

QETは複数のマクスウェルの悪魔が低い温度の熱平衡状態を使って行える新しいツールになっているが、熱的QETの一般的理解を与える情報熱力学の第2法則の拡張は未だ完成されていない。UCLからまたなんらかの発展が出てくればうれしい。

 

ちなみにUCLは、イギリスの長い歴史ではまだ若い大学とされる。例え創立が1826年だとしても。

しかしその開学理念が実に素晴らしい。UCLができる前までケンブリッジ大やオックスフォード大は非常に保守的で、入学できるのは男性、貴族出身、英国教徒という条件を兼ね備えた人に厳しく限定していた。

それに反旗を翻したのが、「最大多数の最大幸福」というスローガンでも有名な哲学者ジェレミ・ベンサム

 

彼はUCLの創立者の1人となって、その入学条件に対して、性別、政治、思想、宗教などのあらゆる差別を撤廃したのだ。

 

UCLの無宗教性のおかげで、オックスフォード大学ケンブリッジ大学では断られたチャールズ・ダーウィンの『進化論』の発表も、ここではできたのだそうだ。リベラルな大学の源流と言えよう。

 

ベンサムは遺言を書き、自分の死後肉体を保存させて大学の玄関ホールに置かせた。それがこの「自己標本」だ。今回もセミナーでの訪問に際して、玄関でお出迎えして頂いた。

 

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この箱には下記のような解説文が付いている。

 

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ウィキペディアからの引用

"死後ベンサムの遺体は、彼が遺言書で要求した通り、保存され、服を着て杖を持ち椅子に座った状態でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで木製の棚に保管された。これは"オート・アイコン"(自己標本)と呼ばれる[12]。それは公的な行事の際、倉庫から時折持ち出された。保存の過程で頭部は深刻な損傷を受けたので、頭部だけは蝋でできたレプリカである。本物の頭部も同じ棚に長年展示されていたが、たびたび学生のいたずらの標的にされ、事あるごとに盗まれたので、現在では別室に厳重に保管されている。"

ジェレミ・ベンサム - Wikipedia

 

UCLではセミナーも沢山の物性理論の人達や実験家も参加してくれて盛況だった。その前後の物理学の議論もQETだけでなく、量子情報熱力学のより一般的な熱状態の受動性の話やブラックホールファイアウォールの議論へと広がり、とても楽しい時間を過ごせた。

 ロンドンの後は、ケンブリッジに鉄道で移動。ケンブリッジ大のDAMTP(Department of Applied Mathematics and Theoretical Physics)の一般相対論グループでセミナーをさせて頂いた。内容はブラックホールの事象の地平線上の漸近対称性の最近の結果についてである。写真はDAMTPが入っている建物であり、近代的な作りになっている。

 

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中に入ると、ここのシンボルであるスティーブン・ホーキングさんの絵画や像が飾られていた。

 

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セミナーは13時から始まる。聴衆がピザなどの簡単な昼食をとりながら聞けるランチミーティング形式だ。

 

会場に入ると、一番前の座席部分が空けられて、紙が置かれていた。

 

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その紙には、次のように書かれていた。

 

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そしてセミナー開始時間直前、彼はやってきた。

 

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彼に研究発表をゆっくり聞いてもらえるのはこれが初めてだ。しかも講演内容は、彼が共同研究者のペリーさん(同じDAMTP)とストロミンジャーさん(ハーバード大)とともに昨年書いた論文に対して、ネガティブな結果も含めてある。。

これがどう彼らを刺激するかは未知数だった。彼らは現在コンピート中の競争相手でもあるのだ。

 いつもより幾分緊張しつつだったが、話し出すとそれもどこかに消えていた。内容には自信があり、しかも楽しい物理が入っていると確信しているからだ。

 

だがトークの中盤に突如ホーキングさんが例の「あの声」で"Happy Xmas"とつぶやいてきたので、こちらは不覚にも動揺してしまった。

 

話していた部分には、もちろんクリスマスは出てこない。既に彼らの結果に対しての批判的コメントの部分は過ぎていたので、もしかしたら不満をもってからかい半分に発言したのかなとも思ってしまった。(しかし、後でわかるようにこれは全くの誤解だった。)

 

このグループのセミナーは彼が出席すると他の参加者の誰もが発言を控えてしまうのか(特に今回はそこの2人の教授の仕事に対するカウンターでもあるし、ケンブリッジ大はかなり保守的と多くの友人から聞いていた)、または彼が更なる発言するのを耳を澄ませて待っているのか、ともかく変な短い沈黙があった。

 

ただ彼の隣で付き添っている介護専門のスタッフの方が大丈夫だから続けてくださいと言っているし、また彼に発言意図をこちらから聞いてもその返事を機械に打ち込むのに10分以上は必ずかかると踏んで、後でゆっくりお聞かせくださいとだけ言って、先を進めることにした。

 

結局彼は特に発言することはなく、講演は時間通りきちんと終わった。

その後若い人が駆け寄ってきて、あの"Happy Xmas"の事情を解説してくれたのだ。

彼は気管切開をした後彼自身の声を失っており、車椅子に備えているインテル社の開発した機械を使って言葉を話している。最初は彼の眉の動きをモニターしてコンピュータ画面上の単語リストから自分の使いたいものを拾ってきて文章を書き、それを音声に直してきた。その後は手のかすかな動きで言葉を入力できる装置に切り替えた。

 

だが最近は症状の進行とともに高齢で体力も落ちてしまい、それまでのコミュニケーション方法ができなくなったらしい。

 

そこでインテル社は頬の運動を捉えるモニターを開発し、再び彼に言葉を与えることに成功したのだ。(これだけでも、彼と周囲の方々の苦労が偲ばれる。)

 

ただ頬方式には難点がある。それは食事中に起こる。食べ物を口に入れて咀嚼するときに、頬も連動してしまう。そして今回は「ランチ」ミーティングだった。彼も介護の方に手伝ってもらってスプーンでオートミールのようなものを口に入れてもらっていた。

するとしゃべりたい意思がなくても頬が動き、それがしばしばエラーを起こして、彼の体の不調を伝える非常時キーワードである"Happy Xmas"を、機械が勝手に発声してしまうのだそうだ。

 

今回もまさにそれだったらしい。このグループのランチセミナーでは定番の風景だったそうだ。最初から知っていれば、こちらもドキリともしなかったのだが。

 

ただ非常時を知らせるキーワードが"Happy Xmas"であるというのを聞いて、やっぱり彼らしいなと感じた。 

彼の体にまだ自由が残っていて、研究者として最も脂がのっていた1971年にイギリス出身のジョン・レノンが出した有名な曲が"Happy Xmas"だからだ。

 

この曲には"War Is Over"という副題が付いており、スタイリッシュに反戦を訴えるものでもある。

www.youtube.com

 

"WAR IS OVER! IF YOU WANT IT"というフレーズのコーラスが素晴らしい曲だ。

彼もこの曲を聴きながら研究していた時期があるのもしれない。それでこの曲名を使っているのかもしれない。(この件は直接彼に尋ねていないので、想像である。)

 

 

 

 

その後興味を持ってくれた人の質問に答えたりした後、彼の部屋に伺った。ペリーさんとその学生さんも一緒だ。彼らは彼との意思疎通に慣れているので、心強かった。セミナー中には彼は質問を機械に打ち込むのにも集中力と時間がかかるため、お部屋に伺って改めて質疑応答という運びになったのだ。

 

彼はまず私がまだ知らないであろう、彼の共同研究者のその若い学生さんを機械に名前を打ち込んで紹介してくれた。

そして自分の講演に関する質問をくれたのだ。これも打ち込みにすごい時間がかかる。

隣に座らせて頂いて、文章が綴られていくコンピュータ画面の上をずっと観察していた。

彼は頬を動かして、画面上の辞書リストからアルファベットと使用頻度順に並べられている単語を探してきて、確定する。

 

これを繰り返して文章を延ばしていくのだが、みていると画面上のカーソルは彼が思うようには動いていないようだ。

 

なんども違う単語を拾ってしまい、それを消去しては、また頬を動かして自分が使いたい単語を取り出そうとしていた。

 

たった1行の文章でも、彼のこのような不屈の努力で綴られているのだ。

 

やはり彼は「強い人」だった。心動くものがあった。

 

その後ペリーさんや学生さんを含めて黒板を使って議論して、楽しい時間を過ごせた。

(もちろん彼は基本的に聞いているだけになってしまったが、内容はきちんと理解しているようだった。)

 

彼の部屋にきて1時間半くらい経ってしまい、さすがに彼に疲れの色が見えた。

介護スタッフの方が彼に確認して、後はメールでということに。

自分は学生さんとカフェテリアで議論を続けた後、DAMTPを後にした。

 

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スティーブン・ホーキングさん。現代のイギリスの物理学者で一般人にも最も著名な方である。しかし自分はそれよりも、彼のとても強い精神力に心魅かれたのだった。

 

さて明日は友人でもあるノッティンガム大のヨルマ・ルーコさんのところでセミナーをする。ケンブリッジ大と同じ内容だ。また懐かしい人達と物理の議論を存分に楽しんできたい。

エントロピック重力理論

最近、オランダのエリック・フェアリンデさんが提案したエントロピック重力理論が世間で注目を集めている。これはオランダの観測グループが銀河による弱い重力レンズの効果を使って彼の理論の検証を行い、データと整合したという論文を出したからだ。

フェアリンデさんは、長距離では重力の強さが変化して、みかけ上暗黒物質ダークマター)があるように振る舞うという主張をしていたため、観測と矛盾しないという観測結果からダークマターは実は不要だったとか、エントロピック重力理論は正しかったとかと、断定的に受け止めた方も多いようだ。

 

しかしこの彼の"理論"は、完成した理論ではない。根拠の確立していない多数の仮説を沢山組み合わせて、観測と比べられる量を同定しているだけで、精密な定式化がなされているわけではないのだ。論理的にダークマターが存在しないことを示したものでもない。

 

論文では、量子もつれエンタングルメントエントロピーの重要性を強調しているが、直観的な議論だけだとも言える。例えて言うなら、20世紀の量子力学の発展における前期量子論的位置づけになろうかと思う。

 

だからエントロピック重力理論の正しさが観測で確認されて、ダークマターが無かったと主張するのは、とんでもない誤解である。観測グループの論文自体にもそのような強い主張はなく、とりあえず彼の理論は1つの観測とは整合して、「最初の試験」にはパスしたと書かれているに過ぎない。それでも刺激的な内容であることには間違いない。

 

以下では、すこしエントロピック重力理論の解説をしておこう。

 

通常の超弦理論や一般相対論では、重力は電磁気力や弱い力、強い力と同様に、もっとも基本的な相互作用の1つと考えられてきた。つまり素粒子や弦など、物質の根源的な単位のレベルでもその力は働く。

 

しかしフェアリンデさんの理論では、重力はそのような力ではないと考える。時空を生み出す源のミクロな自由度が沢山集まり、有限温度の熱平衡を作るときに出てくる派生的な力とみなすのだ。このような現象はポリマーやゴムなどの物性系によく現れることが知られている。

 

 図1のように長い1本のポリマーが箱の中で温度Tの熱平衡状態になっているとしよう。このポリマーは様々な形をとることができ、バタバタとランダムに揺らいでいる。絡まってできるポリマーの毛玉の全体の大きさは、紐の絡まる形の多様さの数がもっとも大きくなるように決まってくる。

 

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その平衡点からポリマーの先端を引き延ばすと、距離に比例して縮もうとするフックの力が生じる。そしてそのばね係数は温度に比例するのだ。だからゼロ温度では、この力は消滅する。

統計力学的効果で2次的に発生するこのような力は、エントロピー力と呼ばれている。

フェアリンデさんは重力もこのようなエントロピー力だと主張をしているのだ。

彼はまず、真空中を加速度運動する物体が量子場の効果で加速度に比例する温度の熱浴を観測する現象、つまり「ウンルー効果」から、重力を計算する"原理"を読み取る。

(ウンルー効果については下記を参照。

mhotta.hatenablog.com

 

ここで話の面白さを明確にするため、ニュートンの逆2乗則を仮定せず、距離に関してどのような強さの重力Fがかかっているかを、知らないとしよう。

 

図2のように、半径rの地点にある質量mの小物体を考える。放っておけば質量Mの大きな物体による重力Fによって落ちてしまうが、それと釣り合うように逆方向の外力(ーF)を加えて、その地点に留めることにする。

もしこの外力がなければ小物体は自由落下するが、この小物体の固有慣性系では重力は等価原理により消去されている。しかしいま一定の外力である-Fがかかっているため、この慣性系では小物体は一様加速度運動をしていることになる。

このため、その加速度aに比例する温度Tのウンルー熱浴を感じていることだろう。つまり外力のおかげで半径rの位置に小物体が静止している場合には、その小物体は温度Tの熱浴に浸されていることになる。

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ここで、ボルツマン定数プランク定数ℏや光速度cを用いて、ウンルー輻射の温度Tと加速度aの大きさ(絶対値)には(1)式の関係があることが知られている。

 

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ここでフェアリンデさんは彼なりのホログラフィ―原理を仮定する。質量Mの物体は、半径rの球の体積中に広がっており、(2)式のエネルギーを持っている。一方同じ状況で、半径rの地点の静止する小物体にとっては、このエネルギーが球面上に存在する温度Tの量子重力のミクロな自由度がもつ通常の熱エネルギー((3)式)に見えるとするのだ。3次元の体積エネルギーを、2次元の熱的な表面エネルギーと見るため、「ホログラフィ的」と言える考え方だ。

 

通常のホログラフィ原理では囲む面積Aに比例する自由度が存在すると考えるので、それを尊重して、彼は重力定数Gを用いてその自由度の数Nを(4)式で与えた。これは通常のベッケンシュタイン-ホーキングエントロピーと同じオーダーだが、ただし1/4の因子だけずれている。この因子の欠落についてフェアリンデさんは合理的な説明を与えていないが、本質的ではないと思っているのかもしれない。

(1)式から(4)式までを組み合わすと、簡単に加速度aの絶対値が(5)式のように得られる。これは大変興味深いことで、質量mを(5)式の両辺にかけて、引力であることを仮定すれば、(6)式のように逆2乗則に従う普通の重力Fが再現されるのだ。つまり従来のニュートンの重力の法則が、ホログラフィックな考え方から発見論的に導出することができたのである。このFは温度Tの熱浴が生み出したエントロピー力であり、それが結果として重力とみなせるとするのが、フェアリンデさんの基本的なアイデアである。

 

上の結果は非相対論的な場合だが、彼の論文(https://arxiv.org/abs/1001.0785)ではアインシュタイン方程式もこのような考え方から導けると主張もしている。しかしそれは言い過ぎだと多くの研究者は思っている。

彼は時空の曲がりを記述する計量の自由度を最初から導入してしまっており、それを使ってブラックホールの熱力学からアインシュタイン方程式を導いたテッド・ヤコブソンさんの解析の真似をしたに過ぎない。

本当に弾性体的描像から一般座標変換のもとで対称なアインシュタイン方程式をきちんと導いたと主張するためには、その計量の自由度を元の弾性体の自由度から書き下し、一般座標変換不変性も導く必要があるのだが、彼はそれをしていないからだ。

その意味で、エントロピック重力理論がアインシュタイン方程式を導くというのは、今の段階では正しくない。さらに方程式への補正項も与えられていないのだ。これができていないため、昨年LIGOで観測された重力波のデータとフェアリンデさんの理論が整合するかどうもも比べようがないのが現状である。

 

オランダの観測グループが書いた論文(https://arxiv.org/abs/1612.03034)での理論のチェックも、たかだか1σの誤差の大きい範囲でなされたに過ぎない。確実なことを言うには、まだまだデータが足らない。また通常のダークマター理論でも、もちろんこの観測データを説明できることはこの論文内でも触れられている。

 

ただそれでも面白い点を挙げれば、フェアリンデさんの理論の予言には決められないパラメータが全く入っていない確定的なものなのに、観測とは整合したという部分だ。ダークマター理論のほうでは、同じ観測量にハロー中のダークマターの未知の質量が入ってしまい、それをパラメータとして扱って最適化をする必要がある。これは、論文でも強調しているエントロピック重力理論の「売り」の点である。ただこれを検証して確実な答えを得るには、まずは観測と理論の進展が望まれる。

 

ともかくホログラフィー原理に基づいたある1つの理論が初めて観測と比べられた事実は、大変評価されるべきことだ。今後も、量子エンタングルメントなどの量子情報的視点は「重力とは何か?」という問いに対して深い知見を我々に与えてくれることであろう。

 

 

量子論で、自分の脳を自分で観測するということ。

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コペンハーゲン解釈では、測定者と測定対象の量子系を「合理的に」分離できたときに初めて、量子力学は使える形で定式化されていると、これまで説明してきた。

(下記まとめを参照。http://togetter.com/li/758266

 

例えば図1は1つの量子的なスピン系を外部観測者が測定をする設定であるが、これは合理的分離が実現している典型例である。

 

しかし自分の脳を、いろいろな機器を用いて「自分自身で」モニターする場合は、この合理的分離に当てはまるのかという質問も出ることがある。

例えば、自分の脳の量子的状態重ね合わせを、脳からの信号を取り出しながら、自分自身で観測できるのかという問題だ。

答えから言うと、自分の脳の量子的重ね合わせ状態は自分では観測できない。

もし可能であれば、時々刻々1つの体験だけを感じている自分の意識と、量子的重ね合わせに含まれている他の体験との間で辻褄が合わなくなるためだ。

自分自身は1つの体験の記憶しかないのに、自分の脳のモニター上にはある確率で実現していない他の体験の結果が現れてしまう。観測されたその脳には、他の記憶が刻まれている。これは明らかな矛盾である。

量子力学で自分の脳を連続的にモニターしても、それは図2のように全く古典力学的振る舞いをするマクロな対象として認識されるだけである。

 そのデータから読み取れる情報は、自分の意識が各時刻に経験した唯一つの事実と全て整合してしまう。

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ただ、ある種の人間に対しては脳の量子的重ね合わせのために記憶や意識が不安定となり、2つ以上の異なる体験を同時にしているという主張もあり得るだろうが、その真偽を定める方法は科学の範疇の中に存在しない。

再現可能性がある健全な科学としての認識論的な量子力学においては、安定した意識と記憶をもつ観測者がいることが大前提である。

その場合だけ量子力学は高い能力を発揮するが、そうではないケースに対しては、量子力学は単に無力になるだけだ。

 

ただ、図2の脳の極一部分を構成している1つの電子などは、量子力学的対象として自分自身でもモニターできる。

マクロな脳の活動の自由度に対してだけ、古典力学的振る舞いが確立していればいいので、それとは関係のない脳のミクロな系の量子的振る舞いは、自分でも観測できるであろう。

また図3のように、事故や手術により右脳と左脳の間の接続を切られてしまったときでも、それぞれの脳に独立な意識が芽生えることもあり得る。

この場合には、様々な外部モニターを用いれば、一方の脳が他方の脳の量子的重ね合わせ状態を観測できる可能性も原理的レベルではある。(ただ飽くまで、原理的思考実験レベルであり、実際の実験はほとんど不可能である。)

 

f:id:MHotta:20160228130050j:plainこのように認識論的なコペンハーゲン解釈では、設定や環境をきちんと指定することによって、自分の脳を自分でモニターするときに量子性を観測できるかについて、具体的な答えを与えることは可能である。

一方、実在としての宇宙の波動関数しかない多世界解釈では、状況は違う。

その解釈論の中では、自分で自分の脳を観測するこの問いに答えるためにも、意識の創発自体を導く必要があるが、これは反証可能な科学的な問題になっていない。

(このあたりは下記ブログ記事を参照。

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2015/02/04/074443

多世界解釈では波動関数の収縮という概念がないため、状態も線形的に時間発展するのみだ。

このため、1つの体験を選択するという射影測定などの非線形的現象は説明できていない。

従って図4のように、多世界解釈では、自分自身で自分の脳の重ね合わせ状態を観測できるかについて答えようがないのである。

 

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【量子とドクターY】 (出会い編)

その頃、病理医のY氏は、多忙をきわめていた。

いつもの業務に加えて、新しい研究を立ち上げ、それをもとに論文を書くつもりであった。

その日も、実験に協力してくれるアルバイトに集まってもらい、あるテーマに沿ったデータを彼らから収集するはずだった。

身長、体重、そして血圧の高いほうの値だけを調べれば、今回の研究で知りたいことは十分な精度で確定する。

そこでY氏は、この3つの数値を体の状態と呼ぶことにし、順番に測ることにした。

 

その集まってくれたバイトの中に、あの不可解な彼女、量子が、混じっていたわけだ。

 

その外見はまるでモヤのかたまりのようでもあり、目を凝らしても蜃気楼のように揺らいで姿が良く見えない。

彼は量子を測定室に招き入れると、身長、体重、血圧をそれぞれの装置で測ろうとした。

どこが頭部の頂きかも分からなかったが、身長計に載せるとパッと頭が現れた。

身長計は180cmを示している。

それを自分のノートに記入して、彼女を身長計から降りさせると、得体のしれない笑みとともに、量子の頭部はふたたびモヤの中に消えさってしまった。

 

「なんだコイツは。」と、腹のなかでおもいつつも、体重計の上に乗ってもらうと、グラグラと異様に揺れていたその目盛りは、突然凍ったように65kgのところでピタリと止まった。

 

Y氏はそれを書き留めると、体重計から量子に降りてもらうのを忘れたまま、量子の腕「らしき」ところへと血圧計を当てようとした。

その瞬間だった。

体重計の針が狂ったように左右に振れ出し、しまいには針がはずれて壊れるのではないというぐらいの異音を発した。

 

驚いたY氏は、血圧計を付けないまま、おもわず後ずさった。

 

すると量子が乗っている体重計の針は、またピタっと止まった。

 

何かいけないことをしたかのような不思議な罪悪感が、Y氏には涌いた。

 

が、気を取り直して、量子に体重計から降りてもらい、再び血圧計を腕らしく思える部分に取り付けると、上の血圧は120だった。

それをノートに書き留めると、Y氏は何か落ち着かなくなり、もう一度身長を測ってみようという気になった。

 

再度身長に乗った量子。そのモヤから現れた頭部は明らかに前よりずっと下に現れた。

 

身長160cm。

さっきは180だったはずだ。

(おかしい。)

量子の意向など構いもせず、Y氏は何回も身長、体重、血圧を繰り返し測り続けた。

機械は壊れていないはずなのに、その数値はどれも全く違うでたらめな値を出してくる。

 

「いや、部分的には法則性がある。」 Y氏は気づいた。

 

身長、体重、血圧のうち、同じ量を連続で測ると必ずその直前の値に一致していた。

身長が176cmだったら、直後に身長を測りなおしても、必ず176cmだった。

身長は確定した値を持っているように見えた。

 

しかし体重か、血圧をその後に測ってから、再度身長を測ると今度は別な数値が出てくる。

何回繰り返してもいいのだが、連続した測定の場合だけ、値が1つに固定されるのだ。

 

これと同じ法則性は、体重測定、血圧測定の場合でも、確認された。

Y氏は驚嘆し、思わず声に出してしまった。「こいつは何者だ。」

 

猛烈な好奇心に駆られ、Y氏は予定していた研究テーマを捨て、量子の不思議な挙動を調べることを決心した。

量子以外のバイトを全員返して、しばらく黙り込んでY氏は考え抜き、まずは量子の体の「状態」の特徴付けをしなくては、と思った。

 

量子の状態は、決まった身長、体重、血圧を同時にとることはない。

仕方なく、この奇妙な事実は、受け入れることにした。

 

そして「身長を測ったときに180cmになる状態」とか「体重を測ったときに77kgになる状態」とか、「上の血圧を測ったときに129になる状態」とかと、長ったらしいが、測定状況を細かく指定することで、量子の「状態」とすることにした。

 

問題は「身長を測ったときに180cmになる状態」と、「体重を測ったときに77kgになる状態」とかの関係だ。

 

Y氏は、回転の速いその頭で、延々といろいろな可能性を考え抜くのであった。

(続く)

 

 

量子テレポーテーションでアリスとボブの間のどこを量子情報は飛んでいくのか。

量子テレポーテーションは、一般の方から見てやはり不思議な現象だろう。

この世の中の全てのモノの本性である、量子情報。そしてその集まりとしての量子状態|ψ〉(または波動関数ψ(x))を、ランダムに吐き出された測定結果を遠隔地に伝えるだけで転送することが可能だ。

以前書いたブログ「量子テレポーテーションは、本当はテレポーテーションではないのか。 」でも、その概要は触れた。

そこでも説明したように、送り手のアリスとっては、量子情報が瞬間的に移動したように見える。

(ただその量子情報を受け手のボブが使えるようになるには、光速度以下で届く測定結果を知る必要があるが。だから因果律は破れない。)

ボブにとっても、テレポーテーションが終わってから自分のスピンの過去の状態を推定すると、測定結果が届く前から、未知の状態|ψ〉に依存したある純粋状態だったように見える。

更にアリスが測定する前からその純粋状態だったようにすら思えるのだ。

つまり量子情報は超光速で先回りして、ボブのスピンに入っていたように考えることもできる。

しかし量子状態を情報の束に過ぎないとみなすコペンハーゲン解釈では、全く問題が生じないことも先のブログ記事で説明した。

今回、説明しようとすることは、その量子テレポーテーションという手品のタネである。

このマジックの中でアリスからボブの間の空間を伝わるのは、|ψ〉に依存しない確率分布をする2ビットの古典情報(測定結果)だけだ。

それなのに、いつのまにかボブのスピンは|ψ〉の情報を持っている。

その仕掛けの舞台裏を、新たな登場人物のクリスからの視点で見てみよう。

 

再び2準位スピン系の量子テレポーテーションを例にして考える。

アリスは謎の人物から渡された未知の量子状態|ψ〉にあるスピン1を持っている。

その状態はスピンの回転軸が上を向いている状態|+〉と、下を向いている状態|-〉の量子的な重ね合わせにはなっているはずだ。ただアリスやボブは、その重ね合わせの複素係数を知らない。

f:id:MHotta:20160208115748j:plainその未知の状態|ψ〉をアリスはボブに壊すことなく転送しなくてはいけない。

単にスピン1を観測して、得られた|ψ〉の情報をボブに知らせればいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。

しかし古典力学と違って量子力学では、1つしかないスピンを測っても|ψ〉はほとんど確定しないし、更に悪いことにその観測によって状態|ψ〉が壊れてしまう。

そのような難しい要求であるが、共有していた最大量子もつれ状態にあるスピン2とスピン3を使って、|ψ〉の中身を知ることもなく、アリスとボブはこの転送をやってのける。

もちろんスピン2と3のこの状態は、|ψ〉に依存していない。

2つのスピンの最大量子もつれ状態には連続無限個の種類があるけれど、その中から互いに直交する下記の4つのベル状態を考える。

f:id:MHotta:20160208115810j:plainそしてアリスがもつスピン2とボブがもつスピン3は、最初はこのIという名前のついたベル状態だったとしよう。するとテレポーテーション前の最初の状況は図3のようになっている。

f:id:MHotta:20160208115826j:plain(ここで各ケットべクトル|⋅〉に添えられている数字は、その状態にあるスピンを指定している。)

アリスの領域には未知状態|ψ〉のスピン1と、ボブのスピンともつれているスピン2。そして、その2つを観測する測定機と、その結果をボブにつたえるスマホが置かれている。

ボブの領域もスマホがあり、スピン3とそれに磁場をかけられる装置もある。

さてテレポーテーションの構造はすでにこの段階で見えている。

図4のように、この3つのスピンの合成系の初期状態は、4つの異なる状態の量子的な重ね合わせだからだ。

f:id:MHotta:20160208115847j:plainそれぞれの状態で、特にアリスのもっているスピン1とスピン2は図2の最大量子もつれ状態(ベル状態)のどれかになっている。一方ボブのスピン3は、各状態において既に|ψ〉依存性をもっているように見える。数式で書けば、下のようになっている。

f:id:MHotta:20160208115911j:plain

しかしこれをみて、最初からスピン3は|ψ〉を知っていたと思ってはいけない。

アリスの領域の2つのスピンの自由度を無視(数学的には縮約)して得られるスピン3の状態は、単位行列に比例する最大エントロピー状態であり、|ψ〉の依存性は実際にはない。

だからこの段階でボブがいくらスピン3を測っても決して|ψ〉の情報を知ることはできない。

この"テレポーテーションマジック"では、アリスがまずスピン1とスピン2を測って、図2の4つの状態のうち、どれになっているかを測定機を使って確かめる。

f:id:MHotta:20160208115929j:plain測定後、スピン1とスピン2はどの場合でも、|ψ〉に依存しない最大量子もつれ状態になっている。また連続無限個の種類がある純粋状態の中から任意に1つの|ψ〉を選んでも、出て来る結果の値の確率は常にどれもp=1/4であり、全くランダムな確率分布をしている。アリスにとっては、もう自分の領域のどこにも|ψ〉に関する情報が見つからない。そして彼女にとっては、知識の増加としての波動関数の収縮により、その量子情報は既にボブのスピン3に飛んでいる。

普通の場合、情報は何かの移動する物体に刻まれて、アリスとボブの間の空間のある経路を通って伝わるはずだ。

ところが実際にはどこにも|ψ〉の情報が通過した形跡がないから、量子テレポーテーションは確かにテレポーテーションに見えるわけだ。

図7のように、その後アリスはその2ビットの古典情報をスマホを通じてボブに伝える。

f:id:MHotta:20160208115948j:plainそしてボブはアリスの結果に応じて向きを選択して磁場をスピン3にかける。その結果図8のようにスピン3の状態は100%の確率で、最初の未知状態|ψ〉になる。f:id:MHotta:20160208120010j:plain(図7、8では、出力された結果がxの場合で書かれている。)

アリスの測定直後からアリスの領域のどこにも|ψ〉が見つからないのは、やはり不思議な手品のような現象だ。

実は、舞台裏のクリスには、そのタネがよく見えている。

量子力学はマクロな系でも成り立つと考えられるので、クリスにとっては、スピンだけでなく測定機やスマホ、そしてアリスやボブまでも、量子的な系になっている。

量子テレポーテーションの各ステップも、その量子系で起きるユニタリーな量子過程に過ぎない。

そしてアリスの測定終了直後、クリスにとって、アリスの領域にあるもの全ては、図9にある4つの異なる歴史をもつマクロな量子状態の重ね合わせになっている。

f:id:MHotta:20160208120049j:plainその全体系の状態を数式で表すと、下のように書ける。

f:id:MHotta:20160208120151j:plainこの状態で、ボブのスピン3の自由度を無視(縮約)して得られる、アリス領域の量子系の縮約状態は下記のものだ。

f:id:MHotta:20160208120219j:plainこのアリス領域の状態の重要な特徴は、未知状態|ψ〉の依存性が全て干渉項のみに現れていて、対角成分のどこにもでてこない点にある。

アリスの測定後にその領域から消えたように見えていた|ψ〉の情報は、マジックの舞台裏のクリスから見ると、マクロ系の量子もつれの中へ巧妙に隠されていたのである。

この他の場合でも量子もつれを使うと、各部分系には情報をまったく持たせないまま、情報を壊すことなく完全に隠すことは可能だ。ブログ記事「量子エンタングルメントと時間の矢 」の中でも、そのような他の例が紹介されている。

図11の数式の干渉項の最後の部分に出ている|ψ〉に対する2点相関関数は、どれも3つのパウリのスピン行列の|ψ〉での期待値に一致することも、スピン行列の性質からすぐわかる。

そしてこの3つの期待値がわかれば、純粋状態に対する下記のブロッホ表示を使って、|ψ〉は完全に定まる。

f:id:MHotta:20160208120234j:plainだから図11のアリス領域の量子系の状態を何回も用意して調べれば、その3つの期待値は測定され、そして|ψ〉が再現されてしまう。

このことは、測定直後にクリスから見れば、|ψ〉の情報全てはまだアリスの領域に隠されて留まっていたことを意味する。つまりスピン3には全く届いていない。

図13に書かれている干渉項の1つの成分部分のように、干渉項の中に|ψ〉を隠すというトリックだったのだ。

アリス自身が参加している異なる歴史どうしの干渉であるため、決してアリスはこの干渉項を観測することができないという、量子力学の原理に則った究極のトリックである。(アリスは、4つの歴史のうちの1つだけしか、意識できないため。)

 

f:id:MHotta:20160208120252j:plainクリスからみれば、アリスからの情報をスマホで受け取り、その結果に応じてボブが行う磁場をかける図14の操作も、もちろんユニタリー過程だ。

f:id:MHotta:20160208120305j:plain舞台裏からこの過程を見れば、アリスのところから送られた電気信号にもその干渉項部分に|ψ〉の情報が隠されており、因果律に則った光速度以下のスピードでスピン3にそれは届けられ、こっそりと受け渡されていたのだ。

クリスにとっては、図14の操作はスピン3への情報書き込みだけでなく、スピン3と他の系の間にあった量子もつれを解消する「dis-entangler」の役目もしている。

これがクリスの視点からみた、テレポーテーションマジックのタネの全貌である。

ただ強調しておくと、普通の手品とは違い、クリスの視点が正しくて、アリスやボブの視点での描像が間違いだとか、不正確ということではない。

アリスがみる量子状態、ボブがみる量子状態、そしてクリスがみる量子状態は、観測者のもつ系の知識量の差によって、一般には全て違う。

量子力学は観測者毎に定式化されており、どの視点での描像も互いに矛盾を起こさない。

クリスにとっての量子力学では、まったく異なる歴史の間に生じる「干渉項」に隠されて量子情報は空間を伝達し、アリスにとっての量子力学では、確かにアリスが測定した瞬間に、量子情報は既にボブのスピンに飛んでいる。

アリスの見方でも、クリスの見方でも、量子テレポーテーションの描像は日常生活とかけ離れているものだが、それぞれ間違いではない。

これが、量子力学自体の深さを示しているところなのだ。

ペリメータ理論物理学研究所でのウンルーさんの古稀祝い

昨日までカナダのペリメータ理論物理学研究所でウンルーさんの70歳を祝う国際会議があった。

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彼の人柄もあって、大変暖かい集まりになった。 

 

初日の最初の講演は、一般相対論の教科書でもお馴染みのワルド(Robert Wald)さん。

 

タイトルは”Information Loss”でブラックホール蒸発における情報喪失問題の状況を概観する内容。

 

ホーキングが最初に言った半古典的理論での情報喪失過程に対して、近年異なる可能性がいろいろ考えられていて、それを順番に説明してくれた。

 

重力崩壊の初期に既に量子重力の効果が及んでブラックホール自体が形成されないシナリオであるファジボール(毛玉理論)や、ブラックホール自体は形成されるのだけどホーキング輻射を出して蒸発する途中から量子重力が働いて、地平面に火の壁ができてしまうブラックホールファイアウォール(BH防護壁仮説)をまず説明された。

 

その後同じウェイトで、蒸発の最終局面に量子重力が働き、地平面内部の全ての情報が一気に量子場の零点振動の流れに書き込まれて放出される可能性を論じた我々の論文(M. Hotta, R. Schützhold and W. G. Unruh, Phys. Rev. D91, 124060 (2015) )を紹介してくれた。予期していなかったので驚いたが、嬉しくもあった。

 

ワルドさんの話には、ウンルーさんと同様「良い物理の見方」が沢山含まれており、示唆に富んでいる。そもそも純粋状態が混合状態に移って見える”情報喪失”は、確率をきちんと保存する通常の量子力学でもありふれた現象であり、ブラックホールの場合だけ特別騒いで、正しい基礎理論である量子力学そのものを今の段階で大きく修正するのはいかがなものか、という批判が根底にある。

 

例えばさっきまで部屋の中にいた1つの光子が窓の外に出れば室内の他の物体は純粋状態にはなくなり、混合状態になる。その光子がその後どこにいったかのかが、我々にとってそんなに重要なのかというウンルーさんがいつも言っている話と同じ態度だ。

 

量子力学はこれまで実験的に破れが見えたことのないとてもいい基礎理論なのだから、ブラックホール蒸発を考える上でも、それを破るのは曲率が発散する時空特異点等の最小限にしたほうがいいというのがベースにあるわけだ。

 

次に講演をしたオッペンハイム(Jonathan Oppenheim)さんとは今回初めて会ったが、ブレイクやランチでいろいろお話しして、すっかり馴染みになった。彼は元はウンルーさんの学生で、イギリスのUCLに移った後は量子情報分野で有名なポーランドのホロデキ(Horodecki)さんと一緒に量子情報熱力学を研究しており、今回もその講演だった。

 

日本の沙川さん達の定式化と随分違う設定をしており、前から理解できないところが多々あったのをいろいろ議論できたのは有益だった。(しかしまだ納得はしていない。)

 

その後も物理として興味深い講演が続いたのだが、印象に残ったのはウォータールー大学の量子計算研究所(IQC)所長のラフラメ(Raymond Laflamme)さんが講演冒頭に語ったウンルーさんの思い出話。

 

彼がウンルーさんのポスドクだった頃、ウンルーさんはとても怖い存在だったというエピソード。議論をしていると、彼の巨体から発せられる地鳴りを伴うような大きな地声で自分の理論の本質的弱点を突かれて、立ち往生するというのが度々だったらしい。

 

(ウンルーさんはいつも直ぐに議論の本質を掴んで、その弱点を見つけてしまう人だ。)

 

ラフラメさんはウンルーさんの巨大さを表現するためいきなり目の前の机の上に登って当時のウンルーさんのモノマネをしてみせ、巨大な熊が「お前はまだ本質を理解していないぞ、しっかりしろ!」と言いながら襲ってくるような、その恐怖感、威圧感を笑顔で語り、会場の笑いをとっていた。

 

ラフラメさんにはこの1月に彼の研究所に滞在させて頂いたときにいろいろお話できたのだが、その時には聞けなかった話だった。

 

その後のウンルーさんを囲むパーティでも彼の研究室出身者達が口を揃えて彼が与える威圧感の大きさを語っていたが、みんなそれを笑顔で語り、今ある自分に大きな影響を与えていると言っていた。

 

彼の研究室での物理の議論には、昔の剣術道場のような厳しさがあったらしい。道場の中では道場主による全く手加減のない真剣な稽古が繰り返されるが、稽古が終わるとウンルーさんの陽性の性格が弟子達を和ませるという日々だったようだ。

 

そんなウンルーさんはそんな弟子達から愛されていたというのがよく伝わった。

 

ウンルーさんをみると思うのは「二流の人は威張るが、一流の人は威張らない」ということ。

 

彼は物理に関しての議論においては威圧感を与えるが、どんな人に接するときも決して威張ったような高慢な態度を見せたことがない。

 

むしろまるで下っ端のように自分であちこちパタパタ動きまわって、人に対して細やかな気遣いをする人だ。

 

だからこそ今回のような温かい古稀のお祝いの集まりをみんながしてくれているのだ。

 

2日目には自分も招待講演をさせてもらえた。お茶大の森川さんと昔やった量子ゼノン効果の研究を最近流行りの意識の統合情報理論(IIT)に結びつける内容だ。

 

シュレディンガーの猫のパラドクスの思考実験において、猫を外から見ていると毒薬をばら撒くトリガーの不安定原子に量子ゼノン効果が働いて崩壊しなくなるのかという話。

そうであれば人間の意識が猫を観測している限り、猫は生き続けるのかというパラドクスを、きちんと量子力学に基づいて解く話であり、教科書にも書いたもの。

 

これは自分の鉄板ネタの1つで自信はあったが、ウンルーさんを初めみんな楽しんでくれたようで良かった。自分の講演にはウンルーさんの実の妹さんと、奥さんのパトリシアさんも参加して聞いてくれて、専門的なことは分からないけど面白かったと後で言って下さった。

 

最終の講演では共同研究者のラフルが、ワルドさんも紹介してくれた我々の論文を話した。量子エンタングルメント(量子もつれ)は粒子とかの物体の間のものは分かり易いが、1つの粒子と真空の零点振動の間にも量子もつれがある事実は、最初なかなか理解しづらい。

 

初めてこの話を聞く多くの参加者も、最初はなかなか理解ができなかったようだが、彼の講演はそれをもみほぐして、彼らを腹から納得させた良い機会だった。

 

他にもいろいろ楽しいことが山盛りだったが、また時期を改めて書くことにしよう。

 

とりあえず最後にパーティで紹介されたウンルーさんと奥さんの1973年の写真を貼っておく。

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彼は最初から巨大熊の体格ではなかったのだ。

 

今回も、とても楽しいウォータールーの滞在だった。