Quantum Universe

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エントロピック重力理論

最近、オランダのエリック・フェアリンデさんが提案したエントロピック重力理論が世間で注目を集めている。これはオランダの観測グループが銀河による弱い重力レンズの効果を使って彼の理論の検証を行い、データと整合したという論文を出したからだ。

フェアリンデさんは、長距離では重力の強さが変化して、みかけ上暗黒物質ダークマター)があるように振る舞うという主張をしていたため、観測と矛盾しないという観測結果からダークマターは実は不要だったとか、エントロピック重力理論は正しかったとかと、断定的に受け止めた方も多いようだ。

 

しかしこの彼の"理論"は、完成した理論ではない。根拠の確立していない多数の仮説を沢山組み合わせて、観測と比べられる量を同定しているだけで、精密な定式化がなされているわけではないのだ。論理的にダークマターが存在しないことを示したものでもない。

 

論文では、量子もつれエンタングルメントエントロピーの重要性を強調しているが、直観的な議論だけだとも言える。例えて言うなら、20世紀の量子力学の発展における前期量子論的位置づけになろうかと思う。

 

だからエントロピック重力理論の正しさが観測で確認されて、ダークマターが無かったと主張するのは、とんでもない誤解である。観測グループの論文自体にもそのような強い主張はなく、とりあえず彼の理論は1つの観測とは整合して、「最初の試験」にはパスしたと書かれているに過ぎない。それでも刺激的な内容であることには間違いない。

 

以下では、すこしエントロピック重力理論の解説をしておこう。

 

通常の超弦理論や一般相対論では、重力は電磁気力や弱い力、強い力と同様に、もっとも基本的な相互作用の1つと考えられてきた。つまり素粒子や弦など、物質の根源的な単位のレベルでもその力は働く。

 

しかしフェアリンデさんの理論では、重力はそのような力ではないと考える。時空を生み出す源のミクロな自由度が沢山集まり、有限温度の熱平衡を作るときに出てくる派生的な力とみなすのだ。このような現象はポリマーやゴムなどの物性系によく現れることが知られている。

 

 図1のように長い1本のポリマーが箱の中で温度Tの熱平衡状態になっているとしよう。このポリマーは様々な形をとることができ、バタバタとランダムに揺らいでいる。絡まってできるポリマーの毛玉の全体の大きさは、紐の絡まる形の多様さの数がもっとも大きくなるように決まってくる。

 

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その平衡点からポリマーの先端を引き延ばすと、距離に比例して縮もうとするフックの力が生じる。そしてそのばね係数は温度に比例するのだ。だからゼロ温度では、この力は消滅する。

統計力学的効果で2次的に発生するこのような力は、エントロピー力と呼ばれている。

フェアリンデさんは重力もこのようなエントロピー力だと主張をしているのだ。

彼はまず、真空中を加速度運動する物体が量子場の効果で加速度に比例する温度の熱浴を観測する現象、つまり「ウンルー効果」から、重力を計算する"原理"を読み取る。

(ウンルー効果については下記を参照。

mhotta.hatenablog.com

 

ここで話の面白さを明確にするため、ニュートンの逆2乗則を仮定せず、距離に関してどのような強さの重力Fがかかっているかを、知らないとしよう。

 

図2のように、半径rの地点にある質量mの小物体を考える。放っておけば質量Mの大きな物体による重力Fによって落ちてしまうが、それと釣り合うように逆方向の外力(ーF)を加えて、その地点に留めることにする。

もしこの外力がなければ小物体は自由落下するが、この小物体の固有慣性系では重力は等価原理により消去されている。しかしいま一定の外力である-Fがかかっているため、この慣性系では小物体は一様加速度運動をしていることになる。

このため、その加速度aに比例する温度Tのウンルー熱浴を感じていることだろう。つまり外力のおかげで半径rの位置に小物体が静止している場合には、その小物体は温度Tの熱浴に浸されていることになる。

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ここで、ボルツマン定数プランク定数ℏや光速度cを用いて、ウンルー輻射の温度Tと加速度aの大きさ(絶対値)には(1)式の関係があることが知られている。

 

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ここでフェアリンデさんは彼なりのホログラフィ―原理を仮定する。質量Mの物体は、半径rの球の体積中に広がっており、(2)式のエネルギーを持っている。一方同じ状況で、半径rの地点の静止する小物体にとっては、このエネルギーが球面上に存在する温度Tの量子重力のミクロな自由度がもつ通常の熱エネルギー((3)式)に見えるとするのだ。3次元の体積エネルギーを、2次元の熱的な表面エネルギーと見るため、「ホログラフィ的」と言える考え方だ。

 

通常のホログラフィ原理では囲む面積Aに比例する自由度が存在すると考えるので、それを尊重して、彼は重力定数Gを用いてその自由度の数Nを(4)式で与えた。これは通常のベッケンシュタイン-ホーキングエントロピーと同じオーダーだが、ただし1/4の因子だけずれている。この因子の欠落についてフェアリンデさんは合理的な説明を与えていないが、本質的ではないと思っているのかもしれない。

(1)式から(4)式までを組み合わすと、簡単に加速度aの絶対値が(5)式のように得られる。これは大変興味深いことで、質量mを(5)式の両辺にかけて、引力であることを仮定すれば、(6)式のように逆2乗則に従う普通の重力Fが再現されるのだ。つまり従来のニュートンの重力の法則が、ホログラフィックな考え方から発見論的に導出することができたのである。このFは温度Tの熱浴が生み出したエントロピー力であり、それが結果として重力とみなせるとするのが、フェアリンデさんの基本的なアイデアである。

 

上の結果は非相対論的な場合だが、彼の論文(https://arxiv.org/abs/1001.0785)ではアインシュタイン方程式もこのような考え方から導けると主張もしている。しかしそれは言い過ぎだと多くの研究者は思っている。

彼は時空の曲がりを記述する計量の自由度を最初から導入してしまっており、それを使ってブラックホールの熱力学からアインシュタイン方程式を導いたテッド・ヤコブソンさんの解析の真似をしたに過ぎない。

本当に弾性体的描像から一般座標変換のもとで対称なアインシュタイン方程式をきちんと導いたと主張するためには、その計量の自由度を元の弾性体の自由度から書き下し、一般座標変換不変性も導く必要があるのだが、彼はそれをしていないからだ。

その意味で、エントロピック重力理論がアインシュタイン方程式を導くというのは、今の段階では正しくない。さらに方程式への補正項も与えられていないのだ。これができていないため、昨年LIGOで観測された重力波のデータとフェアリンデさんの理論が整合するかどうもも比べようがないのが現状である。

 

オランダの観測グループが書いた論文(https://arxiv.org/abs/1612.03034)での理論のチェックも、たかだか1σの誤差の大きい範囲でなされたに過ぎない。確実なことを言うには、まだまだデータが足らない。また通常のダークマター理論でも、もちろんこの観測データを説明できることはこの論文内でも触れられている。

 

ただそれでも面白い点を挙げれば、フェアリンデさんの理論の予言には決められないパラメータが全く入っていない確定的なものなのに、観測とは整合したという部分だ。ダークマター理論のほうでは、同じ観測量にハロー中のダークマターの未知の質量が入ってしまい、それをパラメータとして扱って最適化をする必要がある。これは、論文でも強調しているエントロピック重力理論の「売り」の点である。ただこれを検証して確実な答えを得るには、まずは観測と理論の進展が望まれる。

 

ともかくホログラフィー原理に基づいたある1つの理論が初めて観測と比べられた事実は、大変評価されるべきことだ。今後も、量子エンタングルメントなどの量子情報的視点は「重力とは何か?」という問いに対して深い知見を我々に与えてくれることであろう。