ソウルで行なわれた相対論的量子情報の会議RQIN2014(http://physics.korea.ac.kr/RQIN2014/ )で、ドン・ペイジさんとブラックホール防火壁(ファイアーウォール、firewall)仮説について長く議論するチャンスに恵まれた。
彼は防火壁仮説の基礎になっているペイジ曲線の提唱者であり、ポルチンスキーさんらによって提唱された防火壁仮説はペイジ曲線の観点からも深刻なままという立場をとっていた。
彼はとても気さくな人であり、かつ物理の議論を好み、そして楽しむ方でもあったので、数日に渡る議論は自分にとって大変刺激的なものになった。
ペイジ曲線の話はペイジ時間とともに下記記事
http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/15/112849
でも少し触れている。
ブラックホールには情報喪失問題というパラドクスがあり、現在多くの物理学者を悩ませている。
(これについては
http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/13/115916
も参照。)
ブラックホールを重力崩壊で作る物質の初期状態を量子的な純粋状態|Ψ〉としよう。
この初期状態では物質の各空間領域でのエネルギー密度はまだ十分に薄く、時空はほとんど平坦なものとして良い。
物質のダイナミクスと重力の効果により時間とともにある空間領域に物質が集中するようになってブラックホールが形成されるとしよう。
ブラックホールは古典的には時空に空いた穴のようなもので、一旦その中に落ちたものは何も外に出てこれない。
しかし量子力学の効果を取り入れると、状況は大きく変わる。
所謂ホーキング輻射という光子やニュートリノなどの熱輻射がブラックホールから発せられるのだ。
4次元時空の中の球対称なブラックホールの場合、その輻射の温度Tはブラックホールの質量Mに反比例する。
ホーキング輻射が無限遠方に向けてエネルギーを持ち出すため、ブラックホールは自分のエネルギーE、即ち質量M(=E/c²)を時間とともに失っていく。
しかもTがMに反比例するため質量の軽くなったブラックホールは非常に高温の輻射を出して爆発すると想像される。
問題はその爆発後の状態だ。
もしブラックホールが完全に蒸発しきって、かつ空間には物質の熱的輻射しか残っていなければ、それは統計力学に出てくるギブス状態のように、純粋状態ではなく混合状態で記述するのが素朴には良さそうに見える。
しかしもしそうだとすると、量子力学のユニタリー性が壊れていることになる。
始状態は重力崩壊を起こす物質の純粋状態|Ψ〉だったのに、終状態は物質の混合状態になっているためである。
これは|Ψ〉が持っていた量子情報の一部が失われたことを意味する。
つまり「情報喪失」問題である。
こんなことが本当に起きるかどうかが、多くの物理学者によって長い間検討されてきた。
超弦理論で発展してきたAdS/CFT対応では、ブラックホール蒸発過程でさえも量子力学のユニタリー性は成り立つことが示唆されている。
そうだとすると、蒸発後の終状態において、どこに、どのような形で、量子情報が保管されているのかが問題となる。
単に情報喪失が実際に起きるという古典的な仮説から、実はホーキング輻射のそれぞれの粒子は細いワームホールでブラックホールと繋がっていて、量子情報的にはエンタングルメント状態になって情報喪失を防ぐ等の突飛な仮説まで、いろいろな物理学者がいろいろなシナリオを提案して検討している状況になっている。
情報喪失問題の研究において、ペイジさんの提出したペイジ曲線の議論は大きな一石を投じた。
彼の議論は以下のようなものである。
ブラックホールとホーキング輻射の合成系の状態は、量子重力の効果によって有限次元のヒルベルト空間で記述できるとし、そしてどの時刻においても純粋状態であるとする。
そしてブラックホールを記述する部分空間の次元は時間とともに減少し、ホーキング輻射を記述する部分空間の次元はそれを補うように増加すると考えるのだ。
2つのヒルベルト空間の直積で全ヒルベルト空間を表すとき、時間とともにブラックホールを記述していた自由度は輻射の自由度へと所属が移るとみなすわけだ。
彼はブラックホールができた時刻を初期時刻にとった。
その時には純粋状態にあるブラックホールしかなく、ホーキング輻射は存在していない。
しかし蒸発の最後の時刻にはブラックホールは完全に無くなり、輻射しか存在しないとする。
なお全体系のヒルベルト空間の次元は固定されている。
ブラックホール+ホーキング輻射の全体系は複雑な時間発展をする純粋状態となるはずだが、それを解くことは量子重力理論が未完成である現在不可能である。
そこでペイジさんは次のような立場をとる。
ある時刻にどの純粋状態をとるかは分からないが、多分それはヒルベルト空間内の"典型的(typicalな)"状態の1つにはなっているはずだと。
それで彼は合成系の各純粋状態に対して量子もつれ指標の1つであるエンタングルメントエントロピー(Entanglement Entropy, EEと以下略す。)を計算し、それを全ヒルベルト空間で平均化してみる。
するとその典型的状態においてはほとんど最大のエンタングルメントがブラックホールと輻射の間に生じているという結論に達した。
これに基づいてペイジさんは各時刻の全体系の純粋状態でも、ブラックホールとホーキング輻射の間にほぼ最大のエンタングルメントがあるという仮説を立てた。
そうだとするとEEは、その時刻でブラックホールと輻射の2つの中でより小さいなヒルベルト空間の部分空間次元Dの対数lnDで与えられる。
最初はブラックホールしかなく輻射の次元は真空状態に対応する1次元分しかなかったので、ペイジさんはD=1としてEEは零から出発するとした。
時間とともに輻射の状態空間は広がり、そのDも大きくなるため、EEはしばらく単調増加する。
そしてブラックホールと輻射の次元が一致するときにEEは最大値をとる。
その時刻は現在ペイジ時間と呼ばれている。
ペイジ時間以降、今度はブラックホールの次元のほうが輻射の次元より小さくなるため、Dはブラックホールの次元をとることになる。
時間とともにブラックホールは小さくなるためEEも単調減少をして、ブラックホールが完全蒸発した時点でEEは零になると考えるのだ。
このブラックホールとホーキング輻射の間のEEを縦軸にとり、また輻射のヒルベルト空間の次元の対数を時間軸として横軸に書いたグラフをペイジ曲線と呼ぶ。
ペイジ曲線を信じると、ブラックホールが完全蒸発した後には初期に放出されたホーキング輻射とペイジ時間以降に放出されたホーキング輻射の間にもほぼ最大のエンタングルメントが生じることになる。
これが本当だと仮定して、ポルチンスキーさん達はブラックホール防火壁仮説を立てた。そして地平面で時空は終わり、ブラックホール内部空間は存在しないとしたわけだ。
つまりペイジ曲線の描像は防火壁仮説の肝として使われている。
これらを踏まえて、ソウルの会議でペイジさんと議論したときに自分は以下のいくつかのポイントを指摘してみた。
まず典型的量子状態における量子エンタングルメントとエネルギーに対してである。
ペイジさんより以前に既にセス・ロイドさんの博士論文で指摘されていた、2つの合成系の典型的純粋状態でエンタングルメントがほぼ最大になるという事実(http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/18/190400)は、あるハミルトニアンを仮定している。
ロイドさんは量子統計力学の基礎に興味があったため、彼のモデルは弱くしか相互作用をしない多体系を簡単化したものになっている。
相互作用を零にしたときにはヒルベルト空間の全ての状態は同じエネルギーをとるという、膨大なエネルギー縮退度を仮定している。そこに少しだけ相互作用を入れて全体系を平衡状態に緩和していく話だ。
ペイジさんの計算も実は同じことを知らぬ間に仮定している。
しかし実際の多体量子系ではこのようなヒルベルト空間全体に渡るエネルギー縮退は満たされず、状態密度関数はエネルギーを増加させるとともに普通は指数関数的に増加する。
ブラックホールとホーキング輻射の場合も、そのはずだ。
しかしそうだとすると、ペイジさんの典型的状態は理論の紫外発散のカットオフΛに近い高エネルギーを持ち、さらにエネルギー密度もほぼ最大となることが分かる。
つまり彼の典型的状態は、各空間領域で非常にランダムに力学的自由度が揺らいでいる高エネルギー状態である。
このような場合には、ブラックホールと輻射の間のエンタングルメントはほぼ最大となり、EEは2つのうち小さいほうの部分系の体積Vに比例する「体積則」に従うことになる。
つまりペイジ曲線は、彼が定義した典型的状態においてブラックホールと輻射の間のエンタングルメントが「体積則」に従っているという性質に基づいて書かれているのだ。
しかし通常の低エネルギーの場の量子論の描像が使える量子状態では、EEは「体積則」ではなく、2つの部分系の境界の面積にEEが比例する「面積則」にほぼ従うことが知られている。
情報喪失問題で考えられる始状態も、このような物質場の低エネルギー密度状態である。
ブラックホールの形成蒸発過程でもエネルギー保存則は成り立つため、蒸発後の輻射の状態でも初期と同じ程度の低エネルギー密度分布に戻るはずである。
つまりホーキング輻射のエネルギー密度も薄いため、終状態はやはり低エネルギーの量子場の理論で記述できる、EEの「面積則」に従う状態のはずである。
このことから、自分はペイジさんに彼の典型的状態はブラックホール蒸発過程の終状態ではありえないという主張をして議論を開始してみた。
いろいろな物理系の例を挙げながら議論をしているうちに2日目には彼も彼の典型的状態がカットオフスケールの高エネルギーそして高エネルギー密度を持つ状態であること、そして低エネルギー状態ではエンタングルメントは最大にはならないことを受け入れてくれた。
最大エンタングルメントを持つ状態を時間とともに辿るペイジ曲線は、理論がとれる最大エネルギー値に近い典型的状態においては実現されるかもしれないが、実際の蒸発過程で達成するかどうかは不明ということになった。
従って、ポルチンスキーさん達が地平面付近でのファイアーウォールの出現に関して仮定していた根拠の一部もなくなった。
しかしペイジさんは真空状態やそれに近い低エネルギーの量子状態でもなく、またカットオフスケールに近い高エネルギー状態でもない中間スケールのエネルギー領域で典型的状態を考えれば、ある程度ペイジ曲線は再現できる可能性は捨てられないと言っていた。
ただしペイジさん自身でもまだこの中間エネルギー領域をチェックしていないので、根拠はないとも同時に言っていたところで議論の時間が無くなり、また機会を改めてということとなった。
なおペイジさんだけでなく、超弦理論の分野では熱的平衡が出てくると必ずギブス状態のようなアンサンブル平均を持ち出す。
しかし熱的純粋状態を用いた定式化では、そのようなアンサンブルを持ち出さなくても熱的な物理量を再現できる。
一般に量子情報は非常に高エネルギーな自由度と真空の零点振動のような低エネルギー自由度との間ですらも共有できる非常にデリケートな概念であるため、正確な設定を考えずにギブス状態を用いてエンタングルメント指標を計算すると、正しい答えと全然違う値になることとがしばしば起きる。
ペイジさんと話していて分かったのは、ペイジ曲線の形は熱力学エントロピーからの直観から主に来ており、量子場における正しいEEの定義式からスタートをさせていないということ。
例えば、ブラックホールしかなく輻射が存在しない蒸発の初期状態でも、輻射の量子場の真空状態の零点振動が既にブラックホールの一部ともつれているとも考えられる。
実際動的鏡モデル(moving mirror model)ではそのような結果を得ることもできる[1]。
そうだとするとペイジ曲線は初期値が零から出発するのもおかしく、もっと大きな値からスタートすべきだ。
また低エネルギーの場の理論で記述できる励起状態にある物質を重力崩壊させるときには、ブラックホール蒸発過程でもEEは「体積則」でなく、むしろ「面積則」を満たしながらペイジ曲線は書かれるべきで、それは最大エンタングルメントの値を辿る現在のペイジ曲線よりずっと小さいなEE領域を通過すべきだと思う。
ペイジさんとはまた別な機会にゆっくりと議論を深めていきたい。
なおこのあたりのペイジ曲線に対する批判は、[1]の論文にも書いた。
[1] M.Hotta, J. Matsumoto, and K. Funo, Phys. Rev. D89,124023, (2014).