Quantum Universe

量子情報物理学を中心とした話題で、気が向いたときに更新。X(旧ツイッター)https: //twitter.com/hottaqu note https://note.com/quantumuniverse

測定時間とエネルギーの測定誤差の間に不確定性関係はない。

 量子論で有限の時間ではエネルギー保存則が破れるという間違った説明が様々な大学の授業で教えられているようだ。

特に素粒子や場の量子論の講義の中で、重い粒子が媒介して力を伝達するという部分においてこのような説明がなされているらしい。

この誤解は、有限時間ではエネルギーは正確に測れないという、時間とエネルギーの不確定性関係の間違った理解から出ているようだ。

もちろん時間変動を測り続けてフーリエ変換をするような、時間をかけないとエネルギーが測れない悪い測定も存在する。

しかしエネルギーを測る誤差は、本来測定時間と全く無関係である。

今回はそれを説明しておこう。

そのためにまず「理想測定」とは何かということを、スピンを例にして復習しておこう。

図1、図2にスピン1/2をもつ中性原子のz軸成分を理想測定する測定機の概念図を書いてみた。

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理想測定の満たすべき性質の1つとして、「正確に」測る物理量を読みとれるというものがある。

例えば図1のように、スピンがアップ状態ならば、必ずアップ状態であるという測定結果を測定機が示すことである。

同様に図2のように、ダウン状態でも必ずダウン状態であるという測定結果を確率1で出力する測定のことである。

もう1つの理想測定が満たすべき性質として、測定後の状態は測定結果に対応した固有状態になることが挙げられる。

図1では測定後の状態も|+〉であり、図2では|-〉である。

このような性質をもつ理想測定を実現する方法は1つの物理量に対して複数考えられる。

スピンの場合、よく知られているのは図3のシュテルン・ゲルラッハの実験であろう。

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原子を非一様磁場に通すと、スピンの値に応じて原子の位置が上下に分かれる。

その位置が十分に分離した場合、スピンのアップ状態とダウン状態も正確に区別できるようになる。

連続して同様の実験を行うと、最初のスピン測定でアップが出れば2回目の測定でも必ずアップになる。

これは1回目の測定後状態がやはりアップ状態であることを意味している。

ダウン状態の場合も同様である。

つまり測定後状態は観測値に対応した固有状態になっている。

だからシュテルン・ゲルラッハ実験は確かにスピンの理想測定の例である。

「正確に」物理量を測るという意味を誤解されないように、ここで補足しよう。

図1や図2のように最初から固有状態になっている場合ではなくて、図4のように固有状態の線形重ね合わせだとしよう。

f:id:MHotta:20140426043827j:plain|ψ〉=c₊|+〉+c₋|-〉という量子状態に対して、アップとダウンの確率はそれぞれp₊=|c₊|²、p₋=|c₋|²であり、スピンz成分の値は確定していない。

この量子揺らぎのために「正確にスピンは測れない。」という表現をする人もいるが、これは誤解を呼ぶ表現である。

「正確な測定」の正しい定義では、実際違う。

|ψ〉の状態にある多数のスピンに対して測定を行う場合、得られる測定結果の確率分布が正確にp₊=|c₊|²、p₋=|c₋|²に一致する測定が、「正確な測定」である。

(より正確にはスピンのアップ、ダウンがそのまま測定器のメータにアップ、ダウンとして表示される完全相関があるということ。)

従って量子的に物理量が揺らいでいる場合でも、正確な測定は存在するのだ。

エネルギー(ハミルトニアン)の場合も、もちろん同様である。

ここで、後の測定時間とエネルギー測定誤差の話で使うために、スピンの測定で1つ強調しておくことがある。

スピンの測定時間とスピンの測定誤差の間には、当然ながら、なんの不確定性関係も存在しない。

例えばシュテルン・ゲルラッハの実験で、印加する不均一磁場を空間的に絞りつつその大きさを強めれば、この実験にかかる時間はいくらでも短くできる。

つまりスピンを正確に測る実験の測定時間は原理的にはいくらで短くできる。

この事実は後の議論でまた使う。

 

量子測定には理想測定以外にも図5のように様々なカテゴリーが存在する。 

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まず既に述べたが、物理量の正確な測定結果を与え、かつ測定後状態が対応する固有状態になる場合が「理想測定(Ideal Measurement)」。

そして単に物理量の正確な測定結果を与える測定を「正確な測定(Precise Measurement)」と呼ぶ。

この場合、測定後状態は固有状態とは異なる量子状態になってしまう場合がある。

そして測定結果に誤差も許し、かつ一般には測定後状態も測った物理量の固有状態にならない「一般測定(General Measurement)」というものもある。

測定後状態を続く量子操作に使いまわさない場合には、測定後状態に興味を持たず、測定結果の出力だけを行う一般測定もある。

その場合は特に「POVM測定(Positive -Operator-Valued-Measure Measurement)」と呼ばれたりもする。

世の中の大半の実験における測定は、一般測定だったり、POVM測定だったりする。

 

一般測定における測定の誤差の定義にはいろいろな流儀があるが、例えば小澤の不等式では誤差演算子を用いて定義されている。

図6では物理量Aを測定する一般測定の概念図が与えられている。

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横軸右方向に時間が流れており、左側の初期時刻に測りたい注目系と測定機のプローブ系(測定機で特に注目系と相互作用を直接する部分。)の初期状態が与えられている。

図6ではAの値を示す測定機のメータの針の位置を物理量Mとしてある。

時刻t=0からt=τまでの間に注目系とプローブ系は測定のための相互作用をし、注目系の情報の一部はプローブ系に書きこまれる。

相互作用が切れた後には一般には注目系とプローブ系の量子もつれ状態になっている。

この場合誤差演算子N(A)はMのハイゼンベルグ演算子M(τ)とAのシュレーディンガー演算子A(0)の差として定義される。

そしてAの測定誤差ε(A)は図7に書かれている式のように、合成系の初期状態に対する誤差演算子の2乗平均の平方根で与えられる。

 

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図7では、注目系の他の物理量Bの撹乱η(B)と、普通の不確定性関係に現れる標準偏差も与えておいた。

η(B)は、一般にはAと非可換なBがこの測定の間にどのくらい乱されるかという目安であり、撹乱演算子D(B)の2乗平均の平方根で与えられる。

AとBの間では、以下に与えた小澤の不等式も成り立っている。f:id:MHotta:20140426043911j:plain

(註:ここでパウリ行列の1つの成分σの理想測定での誤差ε(σ)についてコメントしておく。注目系の物理量σ=(|+〉〈+|-|-〉〈-|)⊗Iに対して、プローブ系のメーターの位置Mはスペクトル表示でM=I⊗(|u₊〉〈u₊|-|u₋〉〈u₋|)と書くことができる。|u₊〉、|u₋〉はMの固有値+,-の固有状態である。理想測定ではUm|+〉|0〉=|+〉|u₊〉、Um|-〉|0〉=|-〉|u₋〉が成り立つ。従って注目系の重ね合わせ状態|ψ〉=c₊|+〉+c₋|-〉に対しては、測定相互作用後にUm|ψ〉|0〉=c₊|+〉|u₊〉+c₋|-〉|u₋〉という量子もつれ状態が作られる。このことを用いると、任意の|ψ〉に対してε(σ)=0が直接確認できる。)

 

さて、測定時間とエネルギー測定誤差の話に戻ろう。

この2つの間には不確定性関係が成り立たないことを理解するための最も簡単な例は、やはりスピン系である。

図9のようにz軸方向の一様磁場中にスピンを置くと、そのハミルトニアンはスピンz成分に比例する。

従ってスピンを正確に測れれば、このエネルギーも正確に測れるのだ。

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ところが、上で述べたように、いくらでも短い測定時間でスピンの正確な測定は行える。

つまり測定時間τもエネルギーの測定誤差ε(H)も同時に零にできる。

だから「有限時間ではエネルギーは正確に測れない。」というのは、全く間違った主張なのだ。

もちろん有限時間でもエネルギー保存則は破れたりしない。

これに関しては下記の記事も参考にしてもらいたい。

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/11/155744

(註:この記事ではこれまで電子のスピンで説明してきたが、これだと磁場中でのローレンツ力が無視できず、図のようにならない。そこで実際の実験で使われるような中性原子に置き換えた。この指摘をして下さった、谷村省吾氏に感謝する。)

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量子エンタングルメントと時間の矢

セス・ロイドさんは、量子メカニックを名乗る、猛烈に頭の回転が速いMITの教授である。

量子情報分野では多くの良いお仕事をされており、また「宇宙をプログラムする宇宙」(早川書房)等のポピュラーサイエンスの本の著者としても有名である。

1988年の彼の博士論文での研究[1]が記事[2]に取り上げられていた。

今回このセスさんが考えていた周辺のことに触れてみたい。

量子エンタングルメントと時間の矢の問題である。

但し理解のための準備も必要なため、少し違う情報理論の入口から入っていこう。

まずアリスが1ビットの古典情報が書き込まれている電子スピンを持っているとしよう。

例えばz軸方向のダウン状態を0に、そしてアップ状態を1に対応させればこれは実現できる。

アリスはできるだけ安全にこの情報を秘匿しておきたいと願っているとしよう。

古典情報は簡単にコピーできるのが特徴であり、本来は最大の利点でもある。

実際図1のように、ボブが持っているスピンを近づけてある相互作用をさせると、アリスの持っていた1ビットの情報はボブのスピンに正確にコピーすることが可能だ。

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もしボブからコピーの連鎖が起きれば、世界中にアリスの情報はいくらでも拡散してしまう。

しかし量子エンタングルメントを用いると、アリスはボブとの間だけで情報を安全に秘匿することが可能となる。

相互作用を変えると、アリスとボブのスピンの合成系を図2のようなベル状態(最大エンタングルメント状態)にすることができるのだ。f:id:MHotta:20140418141455g:plain

図2の0と1に対応している2つのベル状態|Ψ(0)〉、|Ψ(1)〉は互いに直交しており、2つのスピンを跨ぐ特別な測定(ベル測定)をすると誤差零で2つの状態を区別できる。

しかし片方のスピンだけを調べても、書きこんだ情報を決して得ることができないという特徴がある。

|Ψ(0)〉でも|Ψ(1)〉でも、図3のようにそれぞれのスピンを測れば0が出る確率は50%、1が出る確率も50%と一致している。

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つまりアリスが持っていた情報の依存性が全くないのだ。

2つのスピンを持っているとその状態重ね合わせの係数に書かれている情報を読みとることができるが、単独のスピンだけからは決して情報は漏れない。

つまり2つのスピンは図4のように「割符」として使うことができる。

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一般に割符は2つのパーツが揃ったときにだけ情報が読み取れるものだが、この量子割符には安全性が物理法則によって原理的レベルから保証されているという利点がある。

さてここでセスさんの話に戻ろう。

セスさんは博士課程の学生の頃、時間の向きの存在理由をこの量子エンタングルメントに見出そうとしたのだ。

通常の相互作用は、量子的にもつれていなかった粒子達をどんどんエンタングルさせて行く。

個々の粒子が持っていた情報は、上述の量子割符のように、非局所的なエンタングルメントという形で保存されるようになる。

どの部分系でもまるで情報が消滅したように見えるが、全体として情報は全く失われていない。

図5のように、熱平衡から大きくずれた初期状態にある多体系では、時間とともに相互作用を通じて粒子群はもつれ合いながら発展していき、その情報を蓄えるエンタングルメントの構造も大規模化していくのだ。

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この現象が時間の矢の本質であるとセスさんは考えていたのだという。

この設定ではエンタングルメントに蓄えることで情報を少しも失うことなく、時間の向きを論じることができるようになる。

この観点に意味があるのなら、緩和の各素過程で増加し続けるはずの量子エンタングルメントは、緩和の終状態である熱平衡状態において「何らかの意味で」で最大になっているはずだ。

しかしそれを確かめるのは簡単ではない。

そこで、熱平衡状態は典型的なカオス状態の1つに違いないという前提のもと、彼は多体系の「典型的状態」の量子エンタングルメントを調べてみたのだ。

自由度の大きな多体系において、純粋状態の集合を考える。

それは一般に高次元のヒルベルト空間の中の単位球面となる。

そして彼はその系を2つの部分系に分け、その2つの系の間のエンタングルメントの分布を計算してみたのだ。

確率測度はさきほどの単位球面上でとる。

得られた結果は彼の期待に応えるものだった。

その典型的な値は量子エンタングルメントの最大値にほとんど等しかったのだ。

つまり典型的カオス状態である熱平衡状態も、やはり量子エンタングルメントが(ほぼ)最大となる状態と考えられる。

時間が流れる向きはエンタングルメント(量子的相関)を最大にする向きと確かに一致するというのが彼の出した答えである。

この結論を含む彼の博士論文は提出当時ほとんど顧みられることはなかったそうだ。

量子情報理論は当時「大いに不人気だった。」("was profoundly unpopular.")

論文を学術誌に投稿しても「この論文には物理がない。」("no physics in this paper")と査読者から酷評されたらしい。

ところが彼のこの仕事は統計力学の分野だけでなく、最近ではブラックホールの情報喪失問題でも重要視されるようになったのだ。

(註:例えば最近ポルチンスキーさん達が提案したブラックホールファイアーウォールの話の基礎になっている「Page Curve」や「Page Time」の概念を導くのにも、彼等の論文は引用される。これについては下記の記事を参照。

http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/03/15/112849

なお[1]の共著者は、彼の指導教官。)

面白い話である。

ところで時間の矢の問題はセスさんの話で終わったのだろうか。

現実はそう簡単ではない。

量子エンタングルメントは典型的な多くの場合に相互作用を通じて大きくなるが、そうでない場合もある。

実際、量子論でも古典論でも状態の再帰性という性質がある。

十分長い時間をかけると、任意の状態の近傍に物理系を時間発展させることが可能なのだ。

(但しその時間は宇宙年齢をはるかに超える長時間かもしれない。)

つまりほとんどの時間領域でエンタングルメントが増加していても、ある時刻から減少に転じて熱平衡から大きくはずれた低エンタングルメント状態になることも起きるのだ。

この再帰性はエネルギー一定を満たす状態集合の「面積」が非常に大きくても有限であることに起因している。

図6のように、(E,E+ΔE)の間のエネルギーを持つエネルギー固有状態で張られる部分ヒルベルト空間を考えよう。

これらの固有状態の重ね合わせで作られる純粋状態の集合は、この空間の単位球面となる。

そしてその上に図6で青色に塗られているような微小領域を考える。

時間発展演算子Uでこの青色領域の中の純粋状態全てを発展させると、その微小領域は球面上を移動していく。

領域の形は変わっていくが、重要なのはその面積は不変であるという性質だ。

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そして図7のように、このUを何回も作用させてどんどん青色領域を移動させていこう。

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 球面の面積は有限であるため、そのうちに必ずもとの微小領域とオーバーラップを生じる。

この事実は、いくら領域の面積を小さくしても有限である限り、変わらない。

このために状態の再帰性が導かれる。

セスさんの結果[1]を踏まえても、時間の矢の問題について多くの研究者はもっと精密に問題設定から熟考する必要があると考えており、現在まで多くの取り組みがなされてきた。

そして孤立系の熱的純粋状態(Thermal Pure State)研究の最近の進展へと繋がっている。

 

追記:説明をセスさんの博士論文の内容により忠実なものに変更しました。(2014年5月13日)

[1] S. Lloyd and H. Pagels, Ann. Phys. (NY) 188, 186 (1988).

[2]  "Time’s Arrow Traced to Quantum Source", https://www.simonsfoundation.org/quanta/20140416-times-arrow-traced-to-quantum-source/

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8月に京大基研で行われる若手量子情報夏の学校

8月の量子情報物理学の基研国際研究会YQIP2014

http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yitpqip2014.ws/

の直後から同じ会場で開かれる、量子情報の若手夏の学校の案内が公開された。

 基研研究会「若手のための量子情報基礎セミナー」

http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~qisc2014.ws/

YQIP2014は8月4日から7日。夏の学校は8日から10日。同じ基研パナソニックホールで開催。若手の方は両方をまたいで参加して頂ける日程設定になっている。YQIP2014では発表をする若手の方を中心に、少し旅費、宿泊等の補助ができる予定。(なお財源は限られているので、全ての方には補助ができない可能性があることにご留意を。)

補助が欲しい方は、まず講演申し込みをして頂ければと思う。YQIP2014の講演申し込み締め切りは5月31日。

 

YQIP2014(8月4日~7日)招待講演者:

Matthew Headrick (Brandeis University)

Benni Reznik (Tel Aviv University)

Takahiro Sagawa (University of Tokyo)

Tadashi Takayanagi (YITP)

Hal Tasaki (Gakushuin University)

William G. Unruh (University of British Columbia)

Go Yusa (Tohoku University)

YQIP2014(8月4日~7日)の主なトピック:

  • Black Hole Entropy and Information Loss Problem of Black Hole Evaporation
  • Quantum - Classical Transition of Quantum Fields in Early Universe
  • Interpretation of Quantum Universe Wavefunction
  • Informational Classification of Various Orders in Condensed Matter Physics
  • Entanglement Characteristics from AdS/CFT
  • Applications of Quantum Information to Renormalization Group
  • Quantum Information Thermodynamics
  • Informational Principle Quest for Quantum Mechanics
  • Consistent Extension of Quantum Mechanics
  • Quantum Simulator and Quantum Computation
  • Quantum Measurement, Quantum Control and Quantum Protocol

若手基研研究会「若手のための量子情報基礎セミナー」(8月8日~10日)講演者

渡辺 優(京都大学):量子力学基礎
沙川 貴大(東京大学):情報理論基礎
山本 喜久(国立情報学研究所):実験基礎
藤井 啓介(京都大学):量子計算基礎

 

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鉛筆とインフレーション宇宙とスクィーズド状態

とねさんの日記の「鉛筆はどれくらいの時間立っていられるか?」という記事に、量子揺らぎとマクロな揺らぎを繋ぐJJサクライの問題が出ていて興味をひいた。

教科書のほうにはアイスピックを例として書かれていたようだが、NHKの番組では鉛筆が登場したため、とねさんも鉛筆で説明してくれている。

問題は以下のものである。

"ハイゼンベルク不確定性原理だけが制限であるとき、鉛筆をとがった芯を下にして垂直に立てたとき、つりあいが保てる時間を見積もりなさい。鉛筆の芯を支えている表面は堅いとする。鉛筆の長さと質量は適当な値を仮定し、つりあいが保てる時間を秒単位で求めなさい。ただし「つりあいが保てる」とは鉛直線に対して1度傾くまでの状態のこととする。" (図1参照)

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古典的境界条件は理想的に整えられており、まっすぐ立った鉛筆が倒れる原因は量子揺らぎだけとしよう。この仮定のもとで、具体的に三菱鉛筆(長さ=17.6cm、質量=6.6g)の場合に約4秒で鉛筆は倒れ出すととねさんは計算されている。秒単位にまで量子効果が拡大されているのは面白い。

もちろん現実的にはそのような実験環境は用意できないのだが、「鉛筆を立てる実験はミクロの世界で働いている原理がマクロの世界に影響を及ぼしていることを実感できる興味深い例」とコメントされており、自分も確かにいい問題だなと思った。

ただJJサクライの解答は、最小不確定性関係を満たすガウス状態のうち、倒れるのがもっとも遅いケースを論じており、より一般的なガウス状態ならば、量子揺らぎの効果だけで一瞬で倒れる例も作れる。(最小不確定性関係を満たすガウス状態がΔx∼0,Δp∼∞となる場合もその一例。)

サクライの教科書では、どのように鉛筆をまっすぐ立てるかという、量子状態の準備の話は略されている。

この状態準備は、例えばまっすぐ立つ位置が底となる外部ポテンシャルを鉛筆にかけて、零温度に近づけるなどで達成できる。図2ではバネでこのポテンシャルを表現した。

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鉛筆の重心に対してこのバネは、正の調和振動子ポテンシャルを与える効果があるとしよう。

低温にするとその基底状態として最小不確定性関係を満たすガウス状態が鉛筆重心に対して設定できる。

そしてある時刻にバネを瞬間的に取り除くことで、鉛筆がどのように不安定になっていくかを議論できるのだ。

重力ポテンシャルの効果で、それ以降は図3のような負の調和振動子ポテンシャルの中を転がっていく粒子として鉛筆重心の運動は記述できる。 

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そのエネルギーは正の定数κを用いてE=p²/2-κ²x²/2とかける。 

鉛筆重心の量子状態は、図4のように位置の平均値〈x〉を零のまま位置の分散Δxが広がっていくガウス状態となる。

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 位置の分散は指数関数的に増加するため、最初は小さく設定した位置の量子揺らぎも成長して、マクロな量になれる。

とねさんの三菱鉛筆の例だと、鉛筆が1度傾く程度になるまでのΔxと初期時刻でのΔxとの比はexp(30)程度、つまり約10の13乗くらいまで大きくなる。

とねさんの日記には奇しくもBICEP2の話も出ているが、実はインフレーション中のスカラー場の量子揺らぎも、鉛筆重心と同じ数理モデルで議論ができるのだ。

インフレーションを記述するドジッター時空の計量ds²=-dt²+a(t)²(dx²+dy²+dz²)を考えよう。

ここで宇宙のスケール因子a(t)はインフレーション中のハッブル定数Hを用いてa(t)=exp(Ht)であたえられる。

この時空上で質量零のスカラー場の零モード(空間的には振動しないモード)ϕ(t)をϕ(t)=x(t)/a(t)^{3/2}と書いてやると、x(t)はちょうど上の鉛筆重心の座標と同じになる。

加速度パラメータκはハッブル定数とκ=3H/2という関係にある。

鉛筆重心と同様に、空間の指数関数的膨張がスカラー場の真空の量子揺らぎ(零点振動)をマクロな揺らぎへと成長させるのだ。

ここで成長するのは位置揺らぎだけではない。

同時に運動量の揺らぎもマクロ的に成長する。

図5には座標xとその共役運動量pについての分散の時間発展を相空間に書いた。

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原点付近のブルーの分布が初期の量子揺らぎである。

そして赤の分布が時間が経ったあとの量子揺らぎである。

特徴的なのはP(t)=p(t)-κx(t)で定義される相空間座標の量子揺らぎは時間とともに指数関数的に小さくなることだ。

P(t)の量子揺らぎを絞り込む(英語でsqueeze)ため、このようなガウス状態はスクィーズド真空状態(squeezed vacuum state)とも呼ばれる。

インフレーションや鉛筆重心の運動は、位置と運動量の揺らぎを大きくする一方で、ある成分の揺らぎを抑え込むのである。

スクィーズド状態は量子光学では簡単に作れて、様々な応用ができる。

また量子ホール系の端電流においても原理的にはスクィーズド真空状態を作ることができる。

これを利用した量子エネルギーテレポーテーション(QET)の実験も、現在東北大で計画されている[1]。

8月の基研研究会YQIP2014では、実験家の遊佐剛さんがこのQETに関連したお話をしてくれる予定である。

なおスクィーズド状態を用いるQETの関連記事は[2],[3]でも見れる。

 

追伸(2014/4/12):ハッブル定数Hと加速度κの関係式の因子を正しく直しました。

[1] http://xxx.yukawa.kyoto-u.ac.jp/abs/1305.3955

[2] http://www.newscientist.com/article/dn24930-squeeze-light-to-teleport-quantum-energy.html#.U0e6-2eKAfR

[3] http://phys.org/news/2014-01-theory-teleport-energy-distances.html

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波動関数の収縮はパラドクスではない。

コペンハーゲン解釈を学ぶ時、一番最初にひっかかるのは「波動関数の収縮」という概念ではないだろうか。

ある量子系を測定して結果を得た途端、その状態は瞬間に別な状態へと変化するという、あの話だ。

古い教科書で学んだ先生方からは、「そんなことは気にするな。まずは計算ができるようになれればいい。(Shut up and Calculate!)」と親切なアドバイスを受けた人もいるだろう。

それでも何か気持ち悪い感じが残っている人も多いらしい。

従来の教科書ではコペンハーゲン解釈の本質的パーツの説明が抜けているから、こういう消化不良を起こすのだと思われる。

コペンハーゲン解釈では波動関数(量子状態)は物理的実在ではなく、認識論的情報概念である。」としっかり理解すれば何も問題は起こらないのだ。

観測者が持っている系の情報量に応じて、1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい。

実在論的解釈(ontological intepretation)ではなく、認識論的解釈(epistemological interpretation)である。

また猫や人間を含む有限自由度のマクロ系でも量子力学は適用できるという点も認めれば、コペンハーゲン解釈のどこにもパラドクスは生じない。

シュレーディンガーの猫の思考実験もパラドクスではないのだ。

量子コンピュータの概念が多くの研究者に浸透するとともに、マクロ状態の線形重ね合わせを原理的に否定する考え方は廃れてきた。

もちろん「デコヒーレンスを抑えれば」という前提があるのだが、マクロ系でも量子コヒーレンスをうまく保つ方法があの手この手で模索されている。

実用に耐える巨大量子メモリを持つ、スケーラブル量子コンピュータ(scalable quantum computer)を夢見る研究者の多くにとって、波動関数は言わば量子情報(様々な物理量の確率分布の束)そのものなのだ。

現代的コペンハーゲン解釈での波動関数の収縮は、測定による量子系の知識の増加に過ぎない。

簡単な例を考えてみよう。

図1のように、空間的に離れた2個の電子スピンA、Bの量子もつれ状態を考えよう。

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Aはアリスの領域にあり、Bはボブの領域にあるとする。

この初期時刻では、アリスにとっても、ボブにとっても、ABの合成系は同じ純粋状態|Ψ〉にある。

次にアリスがAのスピンを測定することを考えよう。

アリスは50%の確率で+の状態を観測し、50%の確率でーの状態を観測する。

1回の測定で、アリスは+かーかのどちらか一方の結果だけを"体験"し、その結果を自分の脳に記憶する。

図2ではアリスは+を観測し、「確かに+が出た。」と記憶している。

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測定でAが+の状態であるという情報を得た時点で、「アリスにとっての」スピン系の量子状態|Ψ〉は|+〉|+〉に収縮する。

従ってスピンBの状態もそれだけで純粋状態となり、今の場合は+の状態(|+〉)となる。

測定後のアリスにとってはAとBの間に量子もつれもなく、|+〉|+〉と|-〉|-〉の間の干渉効果も生じない。

しかし現代的コペンハーゲン解釈において、「ボブにとっての」量子状態は異なるのだ。

ボブがアリスに測定結果を聞いたり、または自分のスピンBを測ったりしなければ、ボブにとってアリスの測定行為はシュレーディンガー方程式で記述される「マクロなユニタリー過程」に過ぎない。

ボブにとっては、スピン系はアリスというマクロな量子系と組んで、図3のような量子的もつれ状態にある。

 

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ボブにとっては波動関数は収縮せず、アリスの初期状態|Alice〉と2つのスピン系の状態|Ψ〉の合成状態|Alice〉⊗|Ψ〉が、図3の状態へとユニタリー的に時間発展するだけなのだ。

ある1回の測定において、図2のようにアリスはAが+の状態にあるという体験をしていても、その同じ測定過程においてボブにとっては図3の量子状態が実現している。

ボブにとってはまだ2つのマクロ状態の量子的干渉効果を観ることが原理的には可能なのだ。

このように、系に対する測定者の知識量に応じて波動関数は異なることがある。

そして異なる波動関数をもつ2人の測定者がいても、特に矛盾を起こさない構造を量子力学は持っている。

例えばアリスが図2の状況になっていて、ボブは図3の状況になっている場合、ボブがBを測定しても矛盾は起きない。

アリスにとってみればBは必ず+の状態であるが、実際ボブがBを測っても+の状態が観測されるだけだからだ。

ボブにとって50%の確率で+の状態が実現してもいいので、彼も結果に関して特に不思議に思うことはないのである。

この辺りの現代的コペンハーゲン解釈は、拙著[1]でも詳しく述べたので興味のある方はそちらも参考にして頂きたい。

 

追記(2014年4月6日):

ツイッターで田崎さんからコメントを頂いたので、関連事項を追記しておく。まずこのブログで扱っている設定は、ある時刻になるとアリスが測定をすることを、アリスとボブの両者が事前に了解し合っている(そしてその測定相互作用も知っている)場合に限定している。もしアリスが実際に測定をするかしないかの確証がボブにない場合には、ボブは主観確率を用いた混合状態で記述する量子ベイズ主義(Qビズム)的扱いをしてもいいし、または後で量子状態トモグラフィ(複数の測定を組み合わせて、どのような状態が実現していたのかを確認すること)をしてもいい。またAとBが因果的に結ばれないほど空間的に離れている場合には、ボブはBの縮約状態ρ(B)=Tr_C(B)[|Φ〉〈Φ|]を扱うことしかできない。(ここで|Φ〉はBの状態を純粋化するように量子系を十分に拡大した時の合成系の純粋状態であり、C(B)はその時のB以外の部分量子系全体を指す。Tr_C(B)はB以外の全ての系の部分トレースをとる操作である。) この場合、測定を含む任意の局所的操作をアリスがAに施しても、因果律のためにボブはアリスから情報を得ることができないので、アリスの操作の前後でBの縮約状態には全く変化がない。時間が経過してAとBが因果的に結ばれるようになれば、AB系の状態トモグラフィが可能となるので、アリスがAに測定をしたかどうかも確かめることもできる。一般に補助系まで含めた全体系が純粋状態だった場合、その後のAとの相互作用を通じてBとも間接的にもつれるパートナーが何であるかをボブは知らなくても、全体系はユニタリー発展しているはずだとボブは考える。但しBに対する直接的な相互作用がなければ、Bの縮約状態は不変なρ(B)のままである。アリスがAを測定をしても、Aが他の量子系と相互作用しても、その事実は変わらない。時間が経った後でもその全体系は純粋状態であり続け、そしてその終状態を状態トモグラフィで確認することも原理的には常にできる。

 

 

Reference:

[1] 堀田昌寛,「量子情報と時空の物理~量子情報物理学入門~」別冊数理科学SGC103(サイエンス社).

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YQIP2014発表応募締め切り2カ月前のアナウンス

2014年8月4日から7日に京都大学基礎物理学研究所において量子情報物理学の国際集会を開催する。 

http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yitpqip2014.ws/

現在参加登録及び口頭発表、ポスター発表の募集中。国内外の多くの方々に参加を呼び掛けている。

8月8日からは量子情報若手の夏の学校が同じ会場であるので、多くの国内の若手の皆さんにも連続参加して頂くことに期待。

発表応募の締め切りは5月31日、参加申し込み期限は6月30日。

Invited Speakers:

Matthew Headrick (Brandeis University)

Benni Reznik (Tel Aviv University)

Takahiro Sagawa (University of Tokyo)

Tadashi Takayanagi (YITP)

Hal Tasaki (Gakushuin University)

William G. Unruh (University of British Columbia)

Go Yusa (Tohoku University)

Topics:

  • Black Hole Entropy and Information Loss Problem of Black Hole Evaporation
  • Quantum - Classical Transition of Quantum Fields in Early Universe
  • Interpretation of Quantum Universe Wavefunction
  • Informational Classification of Various Orders in Condensed Matter Physics
  • Entanglement Characteristics from AdS/CFT
  • Applications of Quantum Information to Renormalization Group
  • Quantum Information Thermodynamics
  • Informational Principle Quest for Quantum Mechanics
  • Consistent Extension of Quantum Mechanics
  • Quantum Simulator and Quantum Computation
  • Quantum Measurement, Quantum Control and Quantum Protocol

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量子生物学(Quantum Biology)

COST2014でプレニオさんが量子生物学の講演をしていた。

https://erez.weizmann.ac.il/pls/kns/kns_pack.showfile?pcode=879

彼は量子情報ではこれまで良いお仕事をされてきたという評価のある人だが、最近は生物分野での量子効果を研究している。

私は量子化学と量子生物学の境界や包含関係がいつも分からないのだが、それは私のせいではない。

この量子生物学が新しい分野すぎて、今後どのように発展していくか誰にも分からないのだ。

その価値も未知数である。

今回プレニオさんは光合成、鳥類が用いる磁場的方向センサー、そして人間の嗅覚を取り上げて紹介していた。

これらの一部は、量子トンネル効果や量子コヒーレンスの存在が発現に関わっているかもしれないという主張だ。

私がちょっと面白いと感じたのは、嗅覚の研究に関してである。

人間の鼻の奥の嗅覚センサーで感じる化学物質は、分子構造が大きく違っていても同じ匂いを感じる場合もあれば、逆にほとんど分子構造が同じ化学物質なのに異なる匂いを感じる場合もあるらしい。

複数の化学物質に共通している部分的構造が同じ匂いを感じさせる原因とは限らない可能性もあるかもしれない。

嗅覚や視覚の理解をそのセンサー部分の局所的解析だけから求めることには、注意が必要だ。

嗅覚や視覚では、外部刺激が体に誘発する局所的な化学反応の電気情報を脳に集積して、それを情報処理する過程が基本であると考えられる。

結局脳が最後の段階で、様々な種類の電気信号を処理をして視覚や嗅覚の個人的「イメージ」を作り上げている。

同じ匂いとか、違う匂いとかという区別が、外部刺激を受け取った初期段階で決定されているのかは疑問だ。

視覚で言えば、脳の作業の結果として「錯覚」

http://www.youtube.com/watch?v=A4QcyW-qTUg&feature=youtu.be

という現象も起きるわけだし、見えている世界の「色彩」もそこで初めて発生する。

例えば色に関しては以下のことが知られているようだ。

ニュートンは「光には色はない。光は色の感覚を生じさせる力を持っているにすぎない」と述べています。簡単な実験で確認できます。たとえば、右目に赤色、左目に緑色を見ると、存在していないはずの黄色が「見え」ます。そう、色は脳の産物なのです。」池谷雄二著「パテカトルの万脳薬」より。

だから視覚と同様に嗅覚でも、単純に鼻に入る化学物質の種類等の「局所的要素」だけが問題なのではなく、脳で行われる嗅覚に関する情報処理がやはり大切になる気がする。

嗅覚センサーにおいて量子効果が確かに存在したとしても、嗅覚そのものの理解には脳の研究との連動が不可欠となるのではないだろうか。

なお量子的嗅覚の研究は、quantum olfactionという単語などで検索してもらえると様々な記事を読むことができる。 

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